全市水道の布設認可は,県会が約4か月後に補助を議決しただけで,国の決定は年度末の昭和4年に入っても不明であった。
2月の市会において,4年度の水道費予算案(歳入2万5,308円 経常部歳出1万9,432円 臨時部歳出5,876円)の議決時に認可問題が取り上げられ,政府に国庫補助とは別に検討されるよう要請することになった。また,国庫補助のない最悪の場合でも,市税をもって事業を完成する決意が表明された。
市長鈴木文次郎は,これら多くの市民からの強い要請を受け3月29日に内務大臣と大蔵大臣につぎのような強い調子の認可追申を提出している。
水土第58号
昭和4年3月29日 水戸市長 鈴木文次郎
内務大臣 望月圭介殿
大蔵大臣 三上忠造殿
水道布設工事施行認可追申
客年7月5日付水土第176号ヲ以テ本市上水道布設工事施行認可稟請候處 右工事実施計画書中ニ国県費補助ヲ計上致候内 県費補助ハ客年11月県会ニ於テ金50万円ト確定致候モ 国庫補助ニシテ万一無之場合ハ市税ニ依リ補塡スル見込ニ候間 此段申候也
これらとは別に,水戸市の住民であり飲料水に,また防火用水などに不便を感じていた県知事などからも,副申書などによって内務省に積極的働きかけがあった。このような市内外関係者の熱心な運動によって,内務省の事務レベル段階では了解された。
水戸市にとって不幸なことに,水道布設内定寸前と伝えられた昭和4年7月,それまでの政友党田中義一内閣にかわって民政党浜口雄幸内閣が成立した。新内閣は,財政緊縮・産業合理化などを旗印に予算の節減,公債発行の中止を発表した。
『水戸市水道誌』には,この状況を「この政変の余波をうけて折角期待した認可も実現を見るに至らなかった」「市長は8月内務省に出頭,速に認可されたいと諒解を求めると形成は既に逆転して意外にも新内閣の財政政策は整理緊縮にある。従って国庫補助を交付し得ざることは勿論起債も許さぬ見込みだから申請書類は返還するといふ((う))」とある。
このとき市長は,「内閣の政策だとて絶対不変のものとも思はれぬ。何れ認可される時期の来るのを御待ちすると答へたまま申請書に手も触れず辞去した」とあるが,水戸市助役を長年勤めた大高實著『市政こぼれ話』には「全市水道と鈴木市長の気転」として,つぎのようなエピソードが記述されている。
鈴木市長は谷伴夫庶務課長,後藤直彦土木課長を随伴し,さらに鞄持ちとして私(筆者大高實)が随行した。内務省地方局に出頭し,茨城県担当の若い属官にそれこそ慇懃(いんぎん)に挨拶を述べ,認可方を要請すると,その属官は分厚い水戸市の認可稟請書を鈴木市長の面前にサッと放り出して,
「この緊縮時代に補助,起債などとはとんでもない。認可稟請書は返還するから持ち帰り給え!」とけわしいすごみかたであった。
鈴木市長は首を下げたまま円満市長の恵比須顔,喜怒哀楽の相を見せぬ。谷,後藤の両課長が交々起って懇願をしたところで,険もホロロとりつくし((ひ))まもない。全く絶体絶命というところ,そのうち鈴木市長が飄然(ひょうぜん)と部屋を出て行かれた。手洗いかなと思ったがそれからいくら待っても帰ってこない。心配になって来た。もしやあまりの衝撃で便所の中でも倒れているのではないかと,便所のドアーを1つ1つ明けてみたがその気配はない。しばし茫然と廊下に立っていると,守衛さんが「水戸の方ですね」といって一片のメモが渡された。メモといっても手帳の紙を割いたもので,鉛筆で「このまま水戸に帰る。書類は受けとるな」と書いてあった。ここで鈴木市長の決心を電光石火の如く私の胸が受け止めた。
名将は,一国一軍の運命を担い,生死ギリギリのところで,見事に決心し勝利をおさめるとか,この兵法を実施したのであろう。
さて,これから谷,後藤両課長の引き際を如何にすべきかを考えながら部屋に戻ると,若い属官が電話の最中である。しめたとばかりそのメモを2人に見せて挨拶もせずにサッサと表に出てしまった。勿論問題の稟請書は投げ出されたままにして。
その後,市当局と市会が一体となり,全市水道計画の認可を受ける方策について協議し,ともに政界に働きかけることになった。民政党筆頭総務原脩次郎,衆議院議員でのちに水戸市長になった中崎俊秀,衆議院議員の小峰満男,水戸出身で元大蔵次官で貴族院議員西野元,かつて茨城県知事であった内務省地方局長の次田大三郎の諸氏に,それぞれの関係を頼って実情を説明し,支援を要請した。
市当局も鈴木市長をはじめとして関係者が,内務省や大蔵省に文字のとおりに「御百度まいり」をして,水道布設の必要を説明した。その誠意が認められ,政界の協力もあって,布設計画書の内容や形式について変更や追加の指示を受けるようになり,役所の検討作業が進展したことを知り,関係者は安心した。