昭和7年4月15日の「いはらき新聞」に,「下市水道を御縁に15ヶ年の奉公 水戸市水道の母 技師長岡田卯之助氏語る」と題してつぎのようにある。
大正3・4・5年に下市水道工事をやった縁で全市水道までさせられる事になりました。全市水道に手を着けたのは大正4年川田市長の時代でした。当時私は上水道の嘱託を命ぜられ調査設計をした。自然流下式を採用する計画で野口村から小松川の流域を踏査致しましたが,地勢の関係上止むなくポンプ式を採用する外方法がないと報告書を作った。当時の水源地は今の工兵隊の作業所の所でしたが,当時の市会は時期尚早論をもって否決して終りました。其後千波湖干拓事業は完成され,上市井水の水位が低下し,黒羽根町,向井町に相次いで大火があった為,市民は初めて水道の必要を感じ,大正14年の市会改選には大部分の候補者が水道促進を一枚看板にされた様でした。で私も依頼を受け,水源地を現在の渡里村地内芦山の那珂川中州に選び,具体的な報告書を提出しました。ところが上下市の給水料の問題に乗り上げ,足かけ3年も揉んだ末ようやく本省に認可方と申達する運びとなりました。
ところが中途,内閣が変り民政党の浜口さんの時代になりました。御承知の如く緊縮一点張りで,百万円以上の起債は許さぬ事になりました。従って書類は握り潰しの形です。ところが今度は失業者の洪水という事になり,内閣は失業救済名目で予定工事を削って許可してくれる事になりました。初まってから認可になるまで,指折り数えれば実に15年です。こんなに準備期間の長い水道は全国にもまれでしょう。実行に移ってからは,とんとん拍子に工事が進みました。ほぼ同じ予算をもってした前橋・桐生の水道は何れも満3年かかってゐ((い))ますのに,水戸のは1年半で竣工しょうとしています。準備期では全国一に長かったですが,工事が早く出来たのでも全国一でせ((しょ))う。
工事中別にこれという苦心もしませんが,水戸市は御承知の通り上・下市の地盤が約80尺異っていますので,水槽を2つにせねばならぬ事になった。これがためポンプも4台ほど余計に据付けねばなりませんでした。なお,市会議員の中に専門的知識を持っておられる方が3・4人おられた事は,工事担当者にもまた市民のためにも非常によかったと思います。