『茨城県の気候』(水戸地方気象台編,昭和34年3月刊)によると,昭和13年6月26日に小笠原西方より北上した台風が本州に接近し,その中心から房総半島南部に不連続線を誘発して数日間停滞,関東地方は大豪雨となった。台風が通過した後も,関東地方には不連続線が停滞し,水戸地方も28日の午前2時5分より再び豪雨となった。それは30日の午後1時40分ごろまで,断続的ではあったが約60時間も続き,水戸では491.1ミリの降水量となっている。
このような豪雨のため,6月29日より7月1日には県内の各河川と湖沼の全てが増水して氾濫し,死者45名,負傷者58名,行方不明4名,家屋全壊834棟,半壊1,280棟,流出437棟,床上浸水3万9,524棟,床下浸水4万2,215棟,道路の被害1,315か所とある。那珂川も大氾濫で,橋の流失は6か所となった。水戸付近では千歳橋が大破,那珂川大橋が流失,万代橋と関戸橋は沈下,昭和2年に架設された河口部分の海門橋は流失している。水府橋だけは少しの破損もなかったが,周囲一帯が泥海であったため,利用価値はなくなっていた。
以上の状況で,水戸市街は,常磐線・水戸線・水郡線・茨城鉄道・水浜電車や自動車交通も不通となり,孤立してしまった。もっとも水戸市街地内部も,那珂川や千波湖の氾濫によって偕楽園下や奈良屋町から水戸駅・柵町一帯,下市地区,那珂川沿岸の根本町に浸水し,台地以外は泥海となっている。台地でも砂久保町・栄町・上水戸町・袴塚町などは雨水で下水が溢れて被害がでるなど,水戸市の戸数の29.4パーセントの3,788戸,人口の28.6パーセントの1万7,000人が直接被害を受けた。もっとも,道路の埋没や流失が23か所,破損が68か所と、間接的には全市民が被害を受けている。
この洪水と水道との関係では,つぎのように完全な非常防備体制が組織できたことによって,災害を受けることがなく,健康な市民生活を維持させることができた。
水源地における那珂川の水位は,平水位が1.14メートルで,警戒水位が2.42メートルとされていた。それが29日の午前5時には3.09メートルとなり,午前8時には4.5メートルともなった。このときの,水戸測候所「気象特報」に「河川増水デ氾濫ノ被害アル見込」とある。浄水場は地盤6.19メートルに過去の洪水を参考として2.81メートルを盛土した高さ9メートルを基準面とし,周囲はそれより1メートル高い10メートルの土堤で保護されていた。このため安全対策は充分と安心感はあったが,万一の場合を想定して非常編成と普通編成の中間的な,日常業務を従とし防備を主とする水害非常防備編成を組織した。
この編成は,各係主任を主査とし,庶務係に物資配給徴収と集納係には必要部署に対する支援のための待機を,給水係に水害状況の調査を,材料係に応急必要物資の調達を,工事係に応急の復旧工事を,工務係に水位観測と諸連絡などの任務が決定された。
高橋六郎水道課長が防備体制の打合せ中も水位は増加し,正午には5.5メートルとなった。課長は浄水場に駆け付け,水害非常防備編成を浄水場にも指令し,係員を土堤警戒係,ポンプ場係,物資並食料係,記録及び水位観測係の4グループに分け,それぞれに準備をさせた。
午後3時に水位が6.15メートルとなり,排水管よりの逆流の心配がでてきたため,同管の弁は閉じられた。その間,市役所内の防備部本部に,浸水を阻止するための応急材料を調達させ,正門や裏門などに用意した。このときすでに,市内では崖崩れや道路の破損個所が多くなり交通は混乱し,下市地区では浸水した家屋がでていた。
その後も水位は高くなり,午後11時には7.5メートル,30日の午前3時30分には8.0メートル,同7時には8.49メートルとなり,浄水場の周囲は全て冠水した。しかも,豪雨は続き,風も強くなって,浄水場は川中島的存在に見えた。
正門と裏門の基盤面は9メートルであったため,浸水の心配が一番多かった。非常用堰板を用意し,土のうを積み上げて浸水を阻止する計画とされたが,場内の築山を崩し俵にその土砂を詰めて搬出する作業は,少人数のため困難であった。午前11時には水位が9メートルとなっていたが,土のうによる門の封鎖は終了せず,場内浸水は時間の問題になってきた。このとき,地元の渡辺健渡里村長が消防団員と舟で応援に駆けつけて,土のう作業に参加したため,ようやく門の封鎖が完了した。
門の封鎖終了後まもない0時15分,浄水場の東隣りの堤防が決壊し,浄水場周囲の土堤に大波が襲った。封鎖した門からの浸水だけでなく,土堤全体が崩壊する心配がでてきた。その後も水位は高くなり,午後2時に9.12メートル,同30分に9.15メートルとなって,周囲土堤の耐水能力に限界が感じられた。
高橋水道課長と浄水場主任は,係員一同が最大の努力をして浄水場を保持してきたが,ついに最終の段階に入ったことを確認した。電話で,岡野助役に「一同死守中なり,併し乍ら或は不幸にして断水することあるやも計り難し」,庶務係主任には「断水の危険あり,断水通知ビラをすぐ作成し置き,当方より通報あり次第,市内に早刻貼出し」をするようにと連絡した。
浄水場では,浸水対策としてポンプ類を取り外して移動させることにした。場内には8台のポンプがあったが,浸水の場合でも最後まで運転して配水塔に送水し,断水の時間を短縮するために,ポンプの機能をもとに順序をつぎのように決定し,作業が始まった。第1は低揚ポンプ(30馬力),第2は低揚ポンプ(15馬力),第3は高区高揚ポンプ(45馬力),第4は低区高揚ポンプ(45馬力),第5は高区高揚ポンプ(75馬力),第6は低揚ポンプ(15馬力)の順であった。これ以外に高区高揚ポンプ(40馬力)と低揚ポンプ(15馬力)の2台は,水没して運転不可能になるまで使用することにし,取外しの対象にしなかった。
午後3時には水位は9.18メートルとなり,土堤の崩壊が近づいたのか数か所から水の浸みでるのがみられた。このとき,岡野助役より,歩兵第2連隊と工兵連隊に救援願いを出したことが連絡され,以後専用電話は不通となってしまった。
午後3時30分,103名よりなる将兵の来援があり,連続30時間も休まずに作業してきた浄水場係員達は,ようやく自分達の努力が報いられつつあることを知った。将兵による土堤の水防工作が成功し始めたので,係員達はポンプ類の取外しと移動に専念でき,作業は一段と進んだ。
その後,必要最大限で可能なかぎりの作業を終了させ,自然の変化を待つだけの状況になった浄水場にいた人たちは,9.2メートルの水位が3時間も続いて,午後7時に水位が1センチメートル下がって9.19メートルとなった時,安堵するより一種の不思議な感動に包まれた。日々はそれほど問題としない河川の1センチメートルの水位に,これほど大きな意味があることを,ここにいた人びとも,それまで気が付かなかった。
午後8時には水位は9.18メートル,同9時には9.13メートルと,完全に減少傾向が見られたことから,7万水戸市民の生命線である水道は守られたことになった。
これらを7月2日の新聞(いはらき)は,「決死の防御作業に,市水道断水免かる,蔭にこの犠牲的活動」と題し,係員20数名と軍将兵の活動,職員加藤徳之助のエピソードを記して紹介した。
浄水場の職員は,勤務の関係上浄水場の付近に居住していたため,ほとんどが洪水の災害を受けている。しかし,主人である職員は,職場の水防工作のために帰宅できず,自宅は家族に任せたままであった。加藤職員の留守宅は,幼児をかかえた夫人が家財道具の整理のために避難の機会を失い,かろうじて屋根の上に避難場所を求めた。このとき堤防が決壊して急に増水し,家屋は泥流に呑まれ,家財道具は流出し,屋根上の母子も危険な状態になった。以上の状況を浄水場の土堤より見ながら,加藤職員は公務のため担当職場を離れて救助に行けなかった。これを知った職員の中から「家族を救え」との声が上がり,仕事に少し余裕のあった職員が危険な濁流中に舟を出し,母子2人を救助したという。
なお,水防のため臨時に勤務を依頼された地元の鹿野千代松と田所重治も,自宅が床上浸水になったことを知り,家族の安否に気を使いながら,担当した部署を守って水道防備に従事していた。
7月1日,1か月振りで青空が見え,浸水区域も急激に縮小したので非常防備の解除命令を準備中の午前8時,低区配水塔より異常配水量の連絡があった。低区配水塔は容量が358立方メートルあって,予定通りに3万人に給水するときは約3時間分があった。しかも,日常の1時間当たりの平均使用水量は45立方メートルから70立方メートルであるのに,この日は500立方メートル以上の配水量となり,ベンチュリー・メーターの指針が吹き飛んでしまった。このままでは配水塔は30分で空になる危険がでてきた。
応急対策として,高区配水塔より連絡弁によって低区に補給したが配水能力を超過しての補給は全施設の体系を破壊し,全市の断水につながる恐れがあった。最終的には1時間当たりの最大配水量を平常時の5倍である250立方メートルとする制限配水とし,低区配水塔の配水引出便を調節した。これによって,下市地区の給水は圧力が減じられ配水量も減少していった。
洪水の後の減水時,洪水が運んだ河川や湖沼の底に堆積している軟弱で粘性のある泥が沈でんし,建物などにも付着するため,この排除の清掃は大変に困難であった。このため下市地区水害被災者3,000余戸が,堆積した泥の排除に水道の水圧を利用したことが配水量の異常増量になったのである。
個人的には保健衛生上必要にして,望ましい水道の利用にみられたが,水道経営からは規模的に,維持管理面からも黙認することのできない乱用であった。市民が少々の不便を感じても市民全体に対する給水を維持するため規則による非常対策が必要と,引出弁の調節をしたと同じ理由で,水道監視を強化した。
また,節水の体制を確保するため,つぎのようなビラを作成して,7月1日より全市に配布し協力を依頼した。
御注意
1 「ムダ」に使用する水が多くなりますと断水となるかも知れません。若し断水しますと市民各位に非常に御迷惑をかけることになりますから御互に御注意願ひ(い)ます
2 出水後の畳,建具等の洗滌は是非水道を「バケツ」に汲んで御使用下さい
3 「ホース」を使用して水道の水で畳や建具等を洗滌することは禁止事項であります
7月1日 水道課
水道使用者各位
このときの水害での被害は,送水本管専用道路の表土が40メートルにわたって流出,水道専用電話柱8本が流出,排水管のフタと人孔が破損,旧水道関係の導水管路8か所と配水管,給水管の破損だけであった。
教訓として,浄水場周囲土堤は強度が不十分であること,水道工作物には復旧を前提にした水防工作をする必要があることなどが確認された。(高橋六郎著「那珂川洪水と水道防備に就いて」)
この大災害について,皇室より水戸市に御下賜金2,000円が下付されることになり,7月7日入江相政侍従が来水して渡された。このとき,秩父・高松・三笠の3宮家と他宮家よりも多額の救援金の下賜があった。