5 昭和16年7月の洪水

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 昭和16年7月10日より12日にかけて不連続線による豪雨があり,水戸地方でも10日0.8ミリ,11日76.6ミリ,12日82.5ミリ,13日31.1ミリと4日間で191ミリの雨量があった。このため那珂川は平水位0.87メートル,警戒水位2.4メートルを突破して,12日には5.35メートルの水位となり,13日の午後0時には7.28メートルとなったという。

つづいて,22日には東京湾に上陸し,土浦付近を通過して北上した台風によって,那珂川上流域は豪雨となった。水戸では20日に63.5ミリ,21日に43.0ミリ,22日に132.9ミリ,23日に49.4ミリと4日間に288.8ミリの降雨があった。こうして10日以来の降雨量は516.8ミリとなり,22日午後には千波湖増水と那珂川氾濫によって下市地区に浸水が始まった。

 那珂川は,23日の午前4時には水位が9.5メートルとなり,同5時50分には9.7メートルとなって,浄水場に接した県堤防が決壊して浸水が始まっている。このときには,海老沢民之助水道課長が浄水場で指揮をとり,前水道課長の高橋六郎が市水道課に来援して協力していた。浄水場よりポンプを取り外して引き上げ完了の報告を受け,ただちに市民に対する断水協力のビラを作成し,高区・低区両配水塔の引出弁を調整して給水量を制限した。このため高区給水地区では減水がすぐ始まり,多くの市民が非常に備えて貯水したため,断水する地区まであった。それは,ビラが,緊急の場合でもあって簡単なものとなり,充分に事情が理解されなかったために市民に正反対の行動をさせてしまったようである。

    御願い

  水道は危険となる。

  ゼヒ節約を願います。

   7月23日 水道課

 午前9時に高区配水塔から浄水場方向を見ると,一面の濁流で,ポンプ場と事務所の屋上だけが浮かぶようにある。浄水場との連絡も,午前6時段階で専用電話が不通となり,中断してしまった。昭和13年6月のときも,連絡方法には困難を感じたため,その後浄水場と高区配水塔間で伝書バトを飼育して訓練していた。これが同年9月の洪水時に役立って,洪水情報の交換に充分助かった。ところが,復旧工事の段階で,全員が時間と仕事に追われ,餌を与えることを忘れて残酷にも餓死させている。以後,必要なことは知っていても,このことを思って,飼うことを言い出す者がなかったらしい。


昭和16年7月の洪水位

 午前10時には,水位が青柳で8.23メートル,浄水場で10.4メートルになり,同11時には減水の傾向が始まった。ポンプ室屋上では,減水を待って場内の排水をしようと復旧工事の準備を始めた。実際には,浄水場など市内全体に電気を供給している大日本電力株式会社の送電線の,変電所下にあった那珂川岸の鉄柱が流失家屋によって倒され,断線で停電していた。その復旧も,河の減水後になるとされており,早期の配水体制の確保には不安があった。


ろ過池の冠水状況


浸水した高揚ポンプ室


浸水した低揚ポンプ室


浸水したディーゼル・エンジン室

 午後2時,水位が9.3メートルとなり,浄水場周囲の土堤が水面より見えだしたとき,前水道課長で,日立水道株式会社に勤務していた高橋六郎が,強風で濁流が高波となっているなかを小舟で支援に来た。


高区配水塔より見た洪水時の芦山浄水場(昭和16年7月28日)


芦山浄水場正面の濁流(昭和16年7月23日午後1時)


洪水時の浄水場全景(昭和16年7月23日午後1時30分)

 このときのことを高橋は,『再び吾人を鞭撻した「那珂川大洪水」の考察』(水戸の水害対策に就いて,昭和17年11月25日白疆会)で,つぎのように記している。

「ポンプ上家」には徹宵一睡もせぬ海老沢(水道課長)君が,稍々蒼白な顔ながら頗る元気であり,また他の水道従業員も亦,些かの疲労の跡を見せぬ元気な姿を見たとき筆者は,ホット安堵の胸をなで下すと共に,いい知れぬ感慨のため暫時一言もなく黙する外なかった。斯く寸時を経て筆者も亦,甚しく空腹を覚えた。思えば今朝4時頃から1食も摂って居らなかったことを自ら知ったので,先づ,これを(中略)徹宵水道防備に従事して居る水道課員の食料確保のため,一睡もせず立働き続けた長谷川女工員から「丼」一杯の朝食とも,昼食ともつかぬ飯,沢庵漬2・3片を貰って先づ腹をこしらえたのであったが,実際,このとき沢庵漬を嚙り乍ら食った飯こそホントウに甘かった。

 なお,浄水場の係員は,13年9月における経験によって減水時にヘドロを排除する必要を知っていたので,午後1時からその作業を濁水に入って進めた。これは,諸施設が水面に出る寸前から,完全に水面上になってヘドロが堆積しなくなるまで,水中での清掃作業であるから,大変な重労働である。それを徹夜作業した人びとが実施するのであるから,大変困難な作業であった。少しの油断をしても,足を取られて泥水のなかに沈んでしまう恐れがあった。


量水井の清掃作業(昭和16年7月23日午後1時)

 以上の作業の展開中,あたりが暗くなり,23日の夜が始まった。係員達は,場内正門からの排水とともに,ヘドロ清掃場所を高所より低地にと拡大していった。減水傾向は遅く場内基盤である9メートルに水位がなるのは,午後8時前後と判断されたためと,電気の送電が中断していて照明がなかったこともあって,作業は午後6時に中止した。


減水後の低揚ポンプ室

 その後,ポンプ室屋上で,復旧工事の計画を発表して役割を分担している。同時に,ポンプ動力の電力問題と,復旧機材の運搬のための道路整備もあって,大日本電力株式会社と県土木課に援助を依頼した。


復旧工事計画表

 24日の深夜からの作業は計画通りに進展した。ろ過池などは,ヘドロの残留が予想より少なかったため,応急復旧は1面だけだったのか,予定時間内に3面の清掃が完了している。

 給水開始については,昭和13年9月の給水開始時の混乱を再現しないようにと,充分なる市民教育をすることにしている。その方法の一つとして,チラシを1万5,000枚印刷し,市内に配布した。


昭和16年7月24日「いはらき新聞」


水道断水の連絡ビラ

 こうした努力の結果,天災の部分は別として,人力の及ぶ部分では完全なる作業ができ,予定より早い25日の午後9時には給水が始まっている。

 これら7月の洪水時は,中崎俊秀が市長を6月14日に退任した後で後任者が決定されていなかった。そのため市当局そのものの対応は円滑を欠いたが,川上勝雄市社会課長が海老沢水道課長に全面的に協力したこともあって,市民に対する影響は最小限ですんだ。