全市水道は,飲料水第一主義によって,8万人に1人1日当たり4立方尺(約6斗)を給水計画する能力のある施設を完成した。実際には,昭和8・9・10の3か年間の1人1日平均給水量は5.58立方尺となり,昭和9年7月にはそれが12.74立方尺となるなど,計画水量では完全に不足するようになる。
使用水量を図のように3か年の実績によってみると,季節変動は放任給水栓において大きいことが明確である。計量栓は平均より1月と3月・10月・11月・12月の5か月が10パーセント内外低くなり,6月と7月・8月の夏3か月が約10パーセント程度高くなって,全体としての幅は20パーセント程度である。放任栓の場合は,2月が平均より30パーセントも低くなり,8月は45パーセントも高くなり,その幅が75パーセントにもなる。
このような使用量の増大や変動に,市の水道施設は対応できる体制がなかったため,水道監視を強化し,給水条例による取り締りをして乱用の防止に努めた。昭和10年において条例違反として摘発され,処分されたのは散水が64件,放流が101件,共同栓の不正使用が69件,その他を含めて1,190件であった。
散水は,5月から始まって6・7・8の4か月間に違反として摘発されている。当時の道路は舗装されておらず,炎天の日で特に風が強い日には水道を利用した散水が多かったといわれる。
昭和8年6月28日のいはらき新聞は「6月にこの暑さ きのふ(う)は31度6 水戸測候所創立以来の記録 1日で変わった酷暑風景」と題し,6月27日に33度1の気温となり,市内氷屋で2,500貫も売れたと説明している。つづいて,「早速水道に響く 驚くきのふ(う)の使用量」とのタイトルで,記録的水道給水量について記載している。それによると,暑熱のためにか午前10時ごろから高区・低区の両配水塔の水位が急激に低下したため,芦山浄水場の低揚・高揚両ポンプ8台315馬力をフル運転させた。この日は午前7時から正午までに8万6,335石8斗、正午より午後5時までには8万7,646石3斗、合計して10時間で17万3,982石が送水されている。これは当時の給水人口からして,1人当たりにすると5斗4升3合になり,1日の24時間で計算すると1人当たりは1石余になると予想された。そして7月25日には,1人1日当たり1石8斗に達した。
昭和9年と同10年の夏には,市民の乱用によって給水不能になることを恐れた市水道課では,各戸に節水の協力を呼びかけ,水道監視の外勤時間を変更して取り締まりをしている。水道の不正使用による乱用は,午前8時より同10時と午後4時より同7時の間が多いため,これに適するように4人の水道監視の勤務体制を改めた。それでも現実には,不正使用をする恐れのある3万7,000戸を,4人の水道監視で取り締まることは不可能のため,給水係なども協力して,不正使用の防止に務めた。その結果が,表「違背種別」になった。もっとも,それは氷山の一角で,実数はこれの何十倍かになると思われた。
これ以外に昭和10年6月には,従来の経験から夏期間は計画給水量の2割増の4.8立方尺(7斗2升)を供給する体制を作った。そして7月19日には茨城会館(現在の県議会議事堂の場所)で水道関係映画の上映をしたり,市立高等女学校や市内6小学校を巡回して水道知識の普及・宣伝に努めた。それでも7月23日には,平日の約3倍である8,500立方メートルが使用された。とくに午前8時から同10時までは,計画給水量の5倍の給水量があって配水塔が空になる恐れがあり,水道課員が総出で道路や庭先の散水取り締りに市内巡回するほどになった。この傾向は,この年が例年になく暑かったこともあって長く続き,7月31日には8,530立方メートルの給水を記録している。これは1人当たりに換算すると1石6斗となる。このときの最大流量の時間は,23日とは異なって午後4時より同6時の間であった。
このような異状給水は,盛夏のしかも午前11時から午後4時前後に集中するので,飲料水利用でなく,禁止されている散水や放水に使用される結果とみられた。現に,この時間帯での違反者の摘発が多くある。それは水道の機能である飲料水の供給以外の,重要な防火用水としての役目を不可能とする。これには充分な水量と高い水圧が必要である。それを可能とする,自然流下方式の要(かなめ)となる配水塔のタンクが空に近くなれば,防火に必要なる放水は出来なくなる。
以上のような浄水の貯水を不可能にする給水の異状使用は,水道制度が放任制で,水量規制ができないためであると考えられた。これは,水戸市水道だけの問題でなく,各都市水道関係者が基本料金(放任)制度か基本水量(計量)制度かと議論したものである。水戸市は,昭和10年盛夏の異状給水を経験して,放任制は水道施設の維持運営に不適当とし,全面的に計量制により給水量をコントロールすることになった。
昭和11年7月には,まだ計量器の取り付けが完成しないこともあって給水量が増加し,平日には3,500立方メートルなのに7,000立方メートルを超える状況が続いた。昭和12年と同13年には,計量器の取り付け個数も多くなり,それぞれ各家庭での給水使用も規制され,配水量は問題にならなかった。
昭和14年の盛夏には,「酷熱正に最高潮」で,日照りが続いて水が不足し,農村では水争いが多発した。このため,市水道も,計量器取り付けによる各家庭の使用量規制は機能を失い,昭和10年時点に戻って配水の異状流出が始まった。7月27日に7,800立方メートルとなり,年間平均は使用量の2倍に達している。配水タンクに対する浄水場からの送水も,浄水場ポンプ能力からして限界があり,断水寸前になってしまった。水道課では,全関係者に市内を巡回させて市民の協力を求めさせ,課長が新聞に「水に悩む出征兵士並の心で水の使用を願ひ(い)たい」と談話を発表するほどになっていた。
散水は,水道を利用してのものは厳禁されていたが,関東ローム層の道路でもあったためホコリで商品が汚れるので商店街の3町内だけには,組合事業として昭和7年4月より特別に許可されていた。その後,各家庭での散水が多くなり,水道の計画給水体制を破壊するような状況もあって,その対策は大きな問題となってくる。
ついに昭和11年には,同10年の夏期における散水など違反行為増加を検討し,水道事業とは別にした市営の散水事業を計画している。那珂川の流水を,水府橋近くから4吋タービンで茨城県庁前に揚水,3台の散水車で全市道に散水するものである。これに必要となる費用は1万3,061円と試算され,市費で4,700円を負担し,残額の8,361円は使用量に応じて各町に割り当てる計画であった。
市営散水事業の着工は,4月1日よりとし,2月の市会に提案された。市会内部には,民営を圧迫しての市営事業化に反対する動きがあり,市会内多数派の親和会は,3月1日につぎのような見解を整理した。
〇上水道を節約し,乱用を防止するために,那珂川の水を揚水して散水するとある。水戸の上水道は8万人給水を目標に計画されたものが,現在は3万5,000人の給水人口しかない。それなのに,上水不足をもとに,散水の他水源利用・市営化はどのような理由によるのか。
〇散水事業は民営として許可しているが,その権利をどうするのか。
〇計画の中に路面1メートルの散水費を48銭として,その総計8,361円の収入見込みがある。市の散水事業に各町が加入しなかったときは,その収入見込額は収入とならない。この場合はどうなるか。
〇散水自動車3台の購入を1,500円としている。実際に散水に利用できるような自動車が,1台500円で買入れできるのか。
以上に対して,大通りに面した各町では,その負担金が高いために,市営化に反対を表明した。南町などは手押車を利用した方法で,多数の従業者がいた。その関係者の失業問題もあって,散水の市営化には強力に反対している。こうして,水道以外の水を利用する散水事業計画は,ついに実現できなかった。