水戸藩では、寛永二年城下町の建設にあたって現在の下町である田町を開き、武家屋敷と町屋敷を割当て、家臣と町民を居住させたが、上町・下町ともに上用水の便利が悪くて難儀した。上町は周囲の低地と二〇メートルの比較高度を有する台地の先端に位置しているために、深井戸を掘らなければならず、また下町は低地にあって地下水位は高いが、その水質が飲料水には不適であるため、ともに上用水の確保は困難であった。
そこで寛永四年(1)(一六二七)、吉田村の溜池二か所から田町の用水を取ることとし、郡奉行の指図で、田町の町人どもに普請させた。これが水戸における上水道工事のはじめである。寛永八年九月(2)には、長屋の前の水道などの掃除を油断なくさせ、もし水道が滞ったならばその前の主人から過料銀一枚を取ることとした。しかし、この用水は紙町・裏七町目など田町の一部に限られ、降雨のときには水が濁ったので、田町の住民は飲料水には苦しんでいた。
光圀はこのような給水難を解決するため、その初世に笠原水道の創設に着手した。まず寛文二年(一六六二)、水道(清水道と呼んだ)の調査を望月恒隆(五郎左衛門)に命じ、望月はその設計を平賀保秀(勘衛門)に命じた。平賀は元下総佐倉の堀田家の牢人で、頼房に仕えて郡奉行となって五百石を賜わり、数理・天文・地理等に通じていた人物である。舟翁と号した。
平賀は笠原不動堂へ一昼夜参籠祈願して、この場所を水源地とすることを定めた。そして笠原から下町までの地形・地質を測量した結果、笠原不動谷の湧水を逆(さかさ)川に沿い、千波湖南岸に導くのが最も適切であることを望月に答え、その計画書を提出した。この笠原水源地の山林は、水戸の人々の信仰の篤かった笠原不動尊の境内に近い所で、頼房時代から特別に保護され、木々の枝葉を折ることさえ堅く禁じられていた。これが水源の涵養に役立っていたのは注目すべきことである。
この水道の企画工事には、水利家として名高い久慈郡町屋村の永田勘衛門(第二代、号円水)が用いられた。(永田氏の事蹟については第二章第二節参照)。彼は笠原水道の測量で、土地の高低を測るのに提灯測量の方法をとった。当時の提灯測量には、夜間、土地の高低を測る場所に提灯を並べ、それを遠方より観測する方法と、湖沼面にそれを反映させて土地の高低を測る方法が行なわれた。円水の測量は後者の方法であった。当時の千波湖は吉田神社の下まで広く湖面であったために、この方法を採用するに有利であった。水道の創設にあたっては、円水のほかに郡奉行三宅繁正(十衛門)等の貢献もあった。
笠原の水源地は千波湖の南斜面を流れる桜川の支流逆川の侵蝕谷で、台地から湧き出る水は質がよく、量も豊かであった。台地の崖端には当時銀河寺があり、その不動堂の石段の下の左右四か所の湧水を溜め、ここに青銅製の竜頭を設け、これより下の溜桝に水を集めた。現在でも笠原は老杉に覆われているが、土地の開発が進まなかった当時は、千波の台地を広く森林が覆っていたものと考えられる。(第一九図)
水戸付近一帯の台地は関東ローム層の下に砂層・礫層があり、雨水はこれを滲透して、セメント化した凝灰岩の不透水層にあい、この表面から湧水となって出る。この笠原の地は下町に対して地形的にも高く、森林によって涵養された豊富な湧水量を持っていたので、それを水源として巧みに利用したのである。また笠原から下町までの岩樋や溜め桝は、自然にセメント化して神崎台地下に露出した凝灰岩を切出して造ったものである。
笠原水道の創設工事は寛文二年にはじまり、一年有半を費やして、翌寛文三年(一六六三)七月に成就した。その普請の全工程については、明らかでないが、工事の完成に近い寛文三年七月十三日から十七日まで、町方から出した人馬は第三表のとおりである。(3)
工事に用いた人足の延人員(4)は郷村の人足一万三九三一人、町の人足三一〇一人、足軽衆七九八二人、合計二万五〇一四人にのぼり、経費は金五百五十四両三分と鐚(びた)七百八十文であった。そのうち人夫賃が四百十五両二百八十文で約七五パーセント、材料その他が百三十九両五百文で、人足一人当たりの賃銭は六十文であった。経費の内訳は、第四表のとおりである。
わが国の上水道(5)は、戦国時代、小田原城主大森氏(北条氏以前)によって創設された早川上水が最初だと伝えられるが、確証はない。江戸時代初期、城下町の建設と共に諸所に開設された。まず慶長八年には江戸の神田上水が竣功し、慶長十年に福井の芝原用水、同十四年に静岡の駿府用水が完成した。そのほか米沢の御入水、赤穂上水などは慶長年間、仙台の四ツ谷堰用水は元和年間、金沢の辰巳用水は元和九年であった。年代順よりすれば、水戸の笠原水道の完成は、わが国で十八番目に当たる。