笠原水道の導水樋は、水源地の溜桝から逆川を越え、吉田台地の崖端斜面を北に下り、千波湖の南岸北側の台地斜面を東に迂回して、吉田神社下の藤柄町に至る。そこから、更に備前堀を銅樋によって渡し、七軒町より本一町目に出て、本町通りを東へ通十町目に至り、さらに新町を経て細谷に達する。笠原水源地から藤柄町入口までは二一一八間二尺(三八五一メートル)、藤柄町より細谷まで三七九五間(六九〇〇メートル)であった。長さでは江戸の神田上水に及ばないが、仙台の四ツ谷堰用水より長く、他藩の上水道が明渠であったのに比べて、水戸の上水道は暗渠であったことを特色とする。
文政七年の「清水道深浅自滝元七軒町懸樋迄之図」(口絵参照)によれば、不動下石段脇に横三尺、巾二尺二寸の溜桝があり、湧泉は二尺六寸の高さの竜頭から、ここに入る。この桝から逆川の橋まで岩樋の長さは七間五尺五寸、樋は蓋置から四~六寸の深さで土中に埋められている。逆川を横ぎる川樋は両側に桝を設け、左岸(上部)の桝は椽内から二尺四寸と一尺五寸四分、右岸(下部)の桝は外法(のり)二尺八寸五分四方で、樋の上には橋を架けた。右岸を北に下る曲折部には一個の溜桝を設け、これから逆川の沖積地と崖端の間を上部で四~五尺、下部で二尺位の深さで土中に岩樋が埋められていた。不動院山と百姓山の小侵蝕谷は長さ一丈二尺、樋口八寸四方の木樋によって横切った。この下側の岩樋は比較的浅く埋められ、七寸から一尺八寸ほどである。七曲り坂下から水道維持の受持区域が、次のように各町毎に定められた。
裏一町目 一三九間三尺五寸 七曲り坂下
青物町 一六五間八寸 裏一町目のつづき
清水町 二一二間一尺一寸 円通寺裏坂下
塩町 一一二間一尺九寸 円通寺下
本七町目 一六一間三尺七寸 円通寺坂下
曲尺手町 一一五間五尺 今出屋山下
通十町目 一七一間三尺 常照寺下
通十町目・下新町 四三六間四尺 同
下新町 二二三間三尺 山野辺屋敷下
この間、清水町支配のところに溜桝があり、塩町支配にはここの湧泉を入れる溜桝が設けられていた。また本七町目支配の円通寺へ上る坂下には二個の溜桝があった。吉田神社北西部の侵蝕谷は木樋で渡し、藤柄町入口には溜桝が設けられていた。前述の町別支配間数は文政十三年三月に改められた。
水源から上述の山根通りの部分と、藤柄町から下新町までの道路に埋められた樋は、岩樋を用い、配水する各個所には溜桝を設けて、ここから土管または木樋で分水し、稀には竹樋も使っている。岩樋の大きさは、水源から一八七三間までは、内法一尺一寸、深さ九寸、厚さ三~四寸とされていた。曲尺手町に使われた岩樋は内法深さ七寸、横外側の石の厚さ三寸、底の厚さ五寸、横の長さは三尺ほどであった(第二〇・二一図参照)。岩樋の継ぎ方はよく工夫され、水洩れを少なくするための切り込みをして、これに粘土目地を施した。
七軒町の銅樋は、総延長三一間、銅樋の厚さ一分、縦・横九寸の角樋であった。これを板で囲い、更にそれを保護するために備前堀に片側八個ずつ、二列の脚柱を打ち込み、これを支えとして、屋根を設けた(第二二図参照)。この銅樋は江戸から舟で運んだもので、その経費は明らかでないが、正徳五年(6)の支出経費に、一一間分の銅樋が計上されていることよりみて、多額のため一時に敷設せず、寛文ののちにも新たに敷設されたものと考えられる。
配水では、本町通りから細谷までが水道の幹線をなし、これから分かれる主なる樋は、紺屋町から備前堀の南側沿いに通り、七軒町から裏一町目、本一町目から鼡町に通ずるものがある。本一町目東側よりは水門町へ、本一・二町目の間からは裏二町目へ、また本二・三町目と本三・四町目の間からは、それぞれ裏三町目・裏四町目に導かれている。裏四町目から清水町へ、青物町から本五・六・七町目に通り、本七町目から鍛治町・十軒町に分かれている。通八町目・九町目では、それぞれ赤沼町・仲之町に導かれる。通十町目から新町に通ずる水道は細谷に至るが、天保年間の水道図によると、十町目より蓮池町を経て立浪町に至る樋と、新町三町目より南ノ辻・北ノ辻の西側を導く樋も設けられていた(第二三図参照)。図に示す丸印は溜桝で、点線はそこから町内に導かれた水道で、各町毎に一・二個の溜桝がおかれていた。また本町通りには通行人に便するために、町角に一・二個の溜桝が設けられていた。
導水樋を埋設した用地は、幅六尺以上と定まっていたが、元禄四年十一月には水源地から明神下までの山根通りに、三尺ずつ両側に杭木を打たせた。