水道の管理は、当時下町名主の年番にあたった者のうちから月番を定めてこれに当たらせ、月番の者も、日常管理の業務処理に関しては、必ず町年寄の承認を得なければならなかった。また別に町人のうちから専任の水本定番をおき、これが水道の保全に当たった。その手当は最初年額二両ずつ切米(給与)、その後寛文十一年から年額五両の切米に改められている。
笠原水道が創設された寛文三年から、江戸時代末の慶応三年(一八六七)に至る二〇四年間における水道の修理普請には、少なからぬ費用と労力を要している。
水道の維持管理の状況(7)については、開設してから二〇年後の天和三年(一六八三)に、はじめて修理の記録があらわれ、以後毎年のように修理を行なっている。この推移の概要をみると、天和三年の修理費は鐚四十五貫八百八十七文であったが、正徳四年(一七一四)には多額の費用を要し、百三十六貫二百二文に及んでいる。これは開設後五〇年を経たため諸処にいたみを生じ、その施設に大きな補修を要したためである。
それから四〇年を経た宝暦二年(一七五二)にも大修理が行なわれ、鐚にして六十九貫百四十一文を費やし、それからまた四四年後の寛政八年(一七六九)、更に同九・十年と続いて大規模な修理が行なわれている。寛政八年には六十一貫七百五十文、同九年には八十貫三百三十二文、同十年には百二十七貫八百三十八文の多額に上り、それから五年後の享和三年(一八〇三)には未だかつてない最高の修理費を要し、一千四十七貫六百八十九文に達している。これらの各年の貨幣価値はかなり差があるので比較してみると、正徳四年の金一両は鐚にして三貫百文であったが、宝暦二年には四貫五百文となっており、寛政十年には六貫五百文に相当する。
大規模な修理を要したこれら各年度の修理内容の特色をみると、次のとおりである(第二四図・第五表参照)。
正徳三年 銅・岩などの樋代が半分以上を占める。これについで大工手間代、人足日雇代であるが、これはともに相半ばしている。
宝暦二年 樋敷設のための板・杭・丸太・竹代が最も多く、大工手間代がこれに次ぎ、この二費目が特に著しくなっている。
寛政十年 人足・日雇代が最も多く、次いで板・杭・丸太・竹代・大工手間代の順となっている。
享和三年 大工手間代、人足日雇代が最も多く、樋材料費と樋敷設材料費ともに相半ばしている。
以上を更に費目別の比率についてみると、樋代(銅樋・岩樋・箱樋等)に高率を示したのは正徳三年の六十一・三パーセントで、享和三年は三三パーセント、寛政十年は八・四パーセント、宝暦二年は僅か一・五パーセントに過ぎない。樋敷設材料費は宝暦二年が最も多く、四五・七パーセント、次いで寛政十年の三八・三パーセント、享和三年の三二パーセント、正徳三年の一二・二パーセントとなっている。人件費については寛政十年が最も多く四八・七パーセント、宝暦二年がこれに次いで四六・七パーセント、享和三年の三五パーセント、正徳三年の二四・三パーセントの順を示している。水道用材切出し費(木挽代)および雑費(酒手・筆墨・道具など)等の比率はきわめて小さく、〇・五~三パーセント内外を示すに過ぎない。
全体としてみれば、樋材料に多額の出費を要し、年の経過するにしたがって修理用材や人件費が増している。後期ではさらに修理用材が多額になる傾向を示すが、それ以上に人件費中の人足・日雇賃が増大している。人足・日雇の内容については、山根通りの草刈・置土・普請等が頻繁に行なわれ、樋の穴明き・漏水等にも多くの人足を使っている。
笠原水道の修理の過程では、長年月の期間にわたるだけに種々の問題があった。技術的な問題としては、寛政十二年(一八〇〇)山根通りの岩樋が漏水の際、水戸藩に技術者がいないために、他領の下野から源蔵なる者を招いてその対策を立てさせた。享和二年の水道の大普請は、町民の財政の困窮のため藩から文金(元文鋳造の小判)百両を借用した結果、実施の運びとなったものである。この普請は山根通り一帯にわたる大規模なものであったため、断水で一時下町住民の飲料水の絶えることが大きな問題であった。これにつき、臨時の措置として、山野辺氏下屋敷(吉田神社西側台地)下の湧泉を当てることにした。この泉の使用については、山野辺氏の承諾を得ることと、それが吉田村百姓の灌漑用水に用いられている関係から、その村民の承諾をも得なければならなかった。名主らの協議の結果、本七町目組頭堺屋九兵衛は山野辺氏との接渉に当たり、白銀町組頭市郎衛門は吉田村庄屋単蔵との交渉に当たった。幾たびかの接渉の結果ようやく承諾が得られ、工事にあたっては町奉行の許可もあって、実施された。この工事は翌享和三年も引続き行なわれているが、この年の名主の立合い出役日数は、七軒町名主五右衛門が八六日、本七町目名主長次郎は五七日、清水町の忠治衛門七一日となっている。