経費の徴収

15 ~ 17/ 28 ページ

水道の諸経費は水道を使用する下町の武士・町民に割当てて徴収した。貞享元年(一六八四)の指割りについてみると、侍衆五九人、一人につき鐚百四十三文となっている。町人は間口一間につき三文または九文かけ、本町通りに限って十四文であった。酒屋は一六軒で、一軒につき六百文の割当てをしたことは、水の使用量が多いためであろう。貞享四年には侍衆五九人で、一人につき鐚六十一文、町人は間口一間につき二文ずつ、酒屋は二五軒で、そのうち一七軒は二百四十九文、他の八軒は一百文ずつであった。享保十八年(一七三三)水道費の割当総額は鐚四十貫二百八十文で、その内訳は次のとおりであった。

    鐚六貫五〇〇文    諸士中(六八人)       一人につき一〇〇文ずつ

    〃一四貫二一八文   本町通り           小間口一間につき一二文

    〃 九貫六八八文   裏町通り           小間口一間につき四文八分

    〃 三貫五九〇文   本町店借(一五〇人)     一人につき二三文

    〃 三貫二〇八文   裏町店借り(二八〇人)    一人につき一一文

    〃 一貫三四八文   酒屋七人           二四八文ずつ四人

                              一四八文ずつ二人

                               四八文  一人

    〃 三〇八文     湯屋五人           七二文ずつ三人

                              四六文ずつ二人

    〃 一貫二二九文                  田中町出口一二間

                              銭谷前七間半

                              赤沼町出口三三間

    〃 二六九文                    御瓦屋前店借九人

                              田中町出口四人

                              銭谷前一人

                              赤沼町出口五人

 宝暦二年(一七五二)銅樋新規普請割当ては、本町は間口一間につき二十六文、裏町は同じく十四文、本町店借は一人二十文、裏町店借は一人十文、酒屋は六軒で一軒につき三百四十八文、湯屋五軒で一軒につき六十文ずつ指割られた。武家については同年七月に、延享四年十二月より寛延四年九月までの普請分の割当てがなされ、一人につき百四十四文の負担であった。

 宝暦六年の銭割りは本町間口一軒につき二十一文懸け、裏町は十文五分、本町店借は一人につき三十文、裏町店借は十文、酒屋は六軒で一軒につき二百文、湯屋五軒で一軒百文、ただし下新町の湯屋は四八文であった。明和五年の場合も、宝暦六年とほぼ同じ方法で徴収している。

 笠原水道竣功後一〇〇年を経過すると、水道の諸所に破損を生じ、その修理にも多額の金を要するようになった。このため下町では、安永年間に水道基金として積立を行ない、三〇年の間に金二百両の基金ができた。その後町民の財政も困窮し、その負担能力が低下してきたので、種々協議の結果、その利息を毎年十両ずつ修理にあてることとして、更に藩から金百両を借用することにした。しかし最初は町奉行の許可が得られなかったが、再び願い出て接渉の末、許可された。その結果、享和二年(一八〇二)に笠原水道の大普請を行なうことができたのである。