浴徳泉の碑

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以上のように、笠原水道は水戸の下町を長く潤おしたので、光圀の恩徳を後世に伝えるため、町年寄加藤堅安(号松蘿)が発起して、泉の傍に記念碑を建て、八代藩主斉脩から浴徳泉と名を賜わって、斉昭の筆で碑面に題し、藤田幽谷の「浴徳泉記」を宇留野静巷の書で刻んだ。時に文政九年五月のことである。その文の一節に「嗚呼、仁君の沢(たく)遠し、東市の父老、謹みてその故迹を守り、今に至るまで猶能くその詳を道(い)う」(読み下し)と記されている。また平賀保秀の功について、「邦人称して古今良宰の第一と為す、即ち斯(こ)の泉たるや、呼んで舟翁泉となすも不可と為さず」(舟翁は平賀の号)とほめたたえている。しかし、労力と費用とについては、「夫(ふ)を用ゆること二万六千人、金を費やすこと僅に五百五十余両、而して工役成るを告ぐ、蓋し、所謂(いわゆる)民の利する所に因りて之を利し、恵んで費さざる者なるか」と記すだけで、人夫に徴用された延べ二万六千人の農民・町人・足軽等の苦労については少しも言及していない。すべてを仁君の徳、良吏の才を中心として解釈する江戸時代の儒学の政治思想がこれにも現われている。


第25図 浴徳泉の碑 ―笠原町