この年代には、国内の諸侯の所領も定まり、諸藩皆争って城を築き城下を修め、競って治国済民の策を講じたが、とりわけ織田・豊臣・徳川の三氏を始め識見のある雄藩諸侯は、河を治め、道を通じ、港を開き、山に植樹し、鉱山を開く等、社会各般の方面にわたって力を尽くした。また当時は、農業を以って国本となし、経済の基本はすべて米穀を用いて計量したので、いずれの藩でも、まず水田の復興を計り、開墾の充実に力を尽くしたことは当然であり、河を治め、道を通じ、井戸を掘ることも耕作の便のためであった。
しかし居城を造営し、その城下の繁栄を計るために、たまたま庶民が飲料に苦しむのを見て、事情の許す限り灌漑用水路を城下の市街に疎通させ、水道と兼用させ、または居城の要害及び所用を満たすために施工した水道の余剰水を分与して、供給したものもあった。また特に、井水不良のため灌漑用水との共用も適しない個所では、庶民を安堵させるため、飲料専用の水道を施設するものであった。したがって、水道は幕府または藩庁の経営に成り、公費負担の企業に属するものが大部分を占め、僅かに城下町以外においては、私人の経営する小水道に過ぎなかった。