こうした経過から、わが国の水道が初めて敷設(ふせつ)されたのは天正十八年(一五九〇年)と考えられている。同年七月十二日に徳川家康が大久保藤五郎忠行に、江戸の水道をつくるべきことを命じている。この時の水道は小石川に水源を求めたらしく、後の神田上水のもととなったと考えられている。小石川水道の水源がどこであったか、その給水区域がどの範囲であったか、竣工がいつであったか等については資料が残っていないのでわからない。おそらく最初は手近な所の水源で極めて小規模の水道であったのであろう。これが必要に迫られて逐次に拡張して、後の神田上水にまで発展したのではあるまいか。
徳川家康が豊臣秀吉から関東移封を命ぜられたのは小田原城攻めの際である。小田原城は天正十八年七月六日である。一方「天正日記」には同年七月十二日に大久保藤五郎忠行が家康のもとに呼び出されて、江戸水道のことを命ぜられている。