ところで、ここに疑問を生じるのは「天正日記」には「江戸水道のことうけ玉はる」とあってこの時に既に「水道」という文字を用いている点である。水道という言葉が水の供給施設として一般に通用したとすれば、その時より以前に水道の施設がどこかに存在していて水道と呼びならわしていたのではあるまいかという疑問が生じる。
また水を暗渠で導く構造をこつ然として、この時に思いついたとも考えられないのである。
むしろ天正十八年七月十二日より以前に、どこかで―恐らく家康の領地であった三河、駿河あたりのどこか―小さい水道が作られたことがありその便利さが認められていて、これを水道と呼んでいたのではあるまいか。
水を暗渠で導く施設に水道と名付けたのはいつ頃で、誰であったかは判らないし、水道の最初の発想が誰によったものかも判らない。水道を暗渠で導くという発想は当時の本邦人の頭に浮かんだものであろうか。この点も厳密に考えていくと多少の疑問がある。
戦国時代の末期にはかなりの外国人宣教師が畿内まで来ていたことは歴史的に明らかであり、織田信長、豊臣秀吉などの戦国の武将は引見もしていたのである。当時(十六世紀末)の欧州での水道事業は、パリ、ロンドン、南部ドイツなどの一部に既に水道が存在し、ピストン、ポンプさえ出現していた時代に相当する。特に僧院、修道院が中世期以来、比較的早く水道施設を有していた模様であるから、十六世紀末に渡来した外国人宣教師も水道の技術者ではないとしても、欧州における水道についての多少の見聞はもっていたと考える方がむしろ無難であろう。もし、そうとするとあるいはこれらの宣教師の西洋事情談の中に水道も含まれていて、ヒントを与えたと推理することも出来ないこともない。
特に家康に関しては慶長五年(一六〇〇)に九州に漂着したイギリス人William Adams(日本名、三浦按針、一五六四~一六二〇)を召し抱えて、三浦に領地を与え、按針は江戸の按針町に居住した。三浦按針は航海士であったが、洋風帆船を建造したりしているし、各種の西洋の知識に関する顧問役であったから、或いは、水道に関しても何かの献策を行ったかもしれない。