日本独自の水道技術

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しかし上記のような推理も成り立たないことはないが、神田上水の技術的な手法は、当時のヨーロッパでの水道技術とは若干趣を異にしている。すなわち、当時のヨーロッパでは鉛管を用いるか、くり抜き木管を使用しているのに反して、神田上水では木管をくり抜きではなく、一旦丸太上面を切り落としてから内部を削り再び蓋をした形態をとっている。この方法は日本独自のものといえよう。

もっとも当時わが国には、くり抜き機械がなかったであろうから、やむをえず次善の方法を考え出したのかもしれない。

神田上水が出来た後、承応三年6月(一六五四)には玉川上水が竣工しているが、これは神田上水よりは一段と規模も大きく、これにより江戸の大部分に水道ができたことになる。

その後さらに青山、亀有、三田、千川の四上水がつくられているが、規模も小さく短期間で廃止されている。

これらの各上水は技術的には大体同一手法であったと考えられ、その後改良水道の竣工により神田、玉川の両上水が廃止されるまでの間に技術の進歩があったかどうかは疑わしい。鎖国により海外技術の導入がなく、国内においても一般の工業技術の進歩がなかったせいであろう。

また、江戸時代には江戸のみでなく、金沢、水戸、福山、名古屋、仙台、鹿児島、高松、福井の諸都市にも小規模な水道が敷設(ふせつ)されたのである。