千波湖湿地帯の埋め立て

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江戸時代、水戸藩の城下町には、那珂川と千波湖の間を東西に細長く伸びる台地と、その東側の低地に形成されており、それは現在の水戸市中心街の原形ともなっている。台地東端にあった水戸城は、台地の南側に今の約四倍の面積で大きく横たわる千波湖と、北側を流れる那珂川によって、一大要害地となっていた。当時桜川は西から湖本体に流れ込み、桜川支流の逆川(さかさがわ)も南から湖に流入していた。そして湖水は、湖の北東端から複雑に巡らされた掘割を経て那珂川に注ぎ、また南東端から直接、備前(びぜん)堀(ぼり)となって流れ出ていた。

江戸時代初期、初代藩主・徳川頼房は台地と千波湖の東側の湿地帯を埋め立て、田町(たまち)と呼ばれる新しい町を開いた。田町は、すでに台地上に開けていた町人町を上町(のちに上市(うわいち)と呼ばれる)とするのに対して下町(下市(しもいち))とし、ここに武家屋敷のほか上町から多数の商工業者を移し、さらに外部からも商工業者を招いて住まわせた。こうして田町すなわち下町は、水戸城下の新しい町人町、商工業の中心地として発展が期待された。しかし埋め立て地とあって井戸水の水質が悪く、飲料に適した水がなかなか得られないという困難が生じた。

そのため寛永四年(一六二七)、藩当局は城下近郊の吉田村(現在の水戸市元吉田町など)にある溜池二か所から取水して下町へ引くこととし、工事の実施を通達している。この工事については確かな記録がなく、用水工事の進行状況や給水の実態はわかっていない。「水戸市史」中巻①は、「これが水戸における上水道のこうじのはじめである」と記しているが、用水は完成したものの給水地域は下町の一部に限られ、そのうえ降雨の時には水が濁ったので、下町の住民は依然、飲料水に苦しんだとしている。


水源地に立つ竜頭共用栓