一年半で十キロの地下水路導入

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それにしても、当時の技術力で一年半ほどの短期間に、このようなものがよく完成した、と驚嘆せざるを得ない。現在のように機械で圧力をかけ強制的に水を送る、などということは思いもよらない時代であり、水は高低差によって移動させるしか方法のない時代であった。下町に対して地形的に高く、かつ良質の水が湧き出ている笠原の地を見つけ、それを水源として巧みに利用、希望通りにはいかない途中の土地の高低の問題を一つ一つ解決し、谷や川も超えて、十キロメートル以上もの長さを、しかもほとんど地下水路によって導水するというのは、なまはんかのことではない。

永田勘衛門は笠原水道の測量で、土地の高低を図るのに提灯(ちょうちん)測量の方法を採った、と伝えられている。夜間、土地の高低を測る場所に提灯を並べ、それを当時の広大な千波湖の湖面に映して高低を測ったという。この提灯測量法が具体的にどのようなものであったか、明らかではないが、茨城県内の歴史地理の研究を進め、水戸市水道部発行の『水戸の水道史』の執筆・編集にも携わった江原忠昭氏は、「千波湖に浮かべた舟を一つの水準器として使ったのでは」とみる。「舟上に二本の棒を立てた舟を浮かべ、そこから湖岸の提灯を見て高低を測った可能性は強い」と話している。