笠原水道創設に要した経費と人員については、工事の完成後、責任者の平賀保秀らが藩の勘定所に出した勘定書が残っている。それに基づいて『水戸市史』中巻①がまとめたところでは、工事に従事した人足の数は延べで、郷村の人足一万三千九百三十一人、町の人足三千百一人、足軽衆七千九百八十二人、合計二万五千十四人、経費は金五百五十四両三分と鐚(びた)七百八十文(鐚九百四十文が金一分、金一分は四分の一両)であった。
人足一人あたりの一日の賃金は六十文で、この賃銭の総額が経費全体の約七十五%を占めている。しかし、『水戸の水道史』は、六十文という賃銭が当時の一般的な人夫賃に比べて、はるかに安いものであることを指摘し、「(人々は)恐らく奉仕の形で参加したものと考えられる」と書いている。経費の残り二十五%は材料代その他だが、領内の石材(岩)や木材を使ったせいか、これも安く、全体に大事業の割に小さな支出となっている。
とはいえ、五百五十四両余もの支出は、藩財政にとって決して楽なことではない。笠原水道は創設後も維持管理や修理に少なからぬ費用と労力を要した。それらは受益者―水道を使用する下町の町人・武士が分けあって負担したが、当初は新開地・下町の住人に創設費用を分担するだけの経済力がなかったから、すべて藩が負担したとみられる。農業土木事業などと違い、上水道の敷設事業は直接、生産力増強につながるものではない。にもかかわらず、水戸藩はなぜ、この事業に力を注いだのだろうか。