水戸城下の新しい町人町として藩が下町を開いた事業は「田町(たまち)越(ごえ)」とよばれ、その名のとおり、湿地帯を埋め立てて造った町(田町)に人々を移住させたものであった。井戸を掘っても飲料に適した水が得られるような土地ではなかったが、ここは水戸城下の発展のためにどうしても繁栄させなければならない場所であった。武士も住んだが、何よりも商工業を盛んにし、活気ある町人町にしなければならなかった。水戸城がある大地の上よりは防備の面で問題の少ないこの低地の下町を、水戸街道と岩城相馬街道との接続地とし(両街道は浜街道と総称され、明治時代になると陸前浜街道と呼ばれた)、人々が数多く行き来し、街道沿いには町家が建ち並ぶ土地とする必要あった。
こうしたことから、人々の生活に不可欠な水を供給する笠原水道は水戸藩としては、どうしても造らざるを得ないものだったのである。『水戸の水道史』は、江戸時代の水戸城下の人口を、年代による増減や武士と町人の両方の数を同一時点で把握できる資料がないなどの問題はあるが、大まかに見て、武士と町人合わせて三万人前後であったと考えられる、といている。そして「その過半の人口が、低湿地帯の、井戸水も充分でない下町に住んでいたのであった。質のよい飲料水が求められたのも当然であった」と記している。
