歴代水戸藩主のうちで光圀だけが水戸生まれであり、自ら「常州水戸の産なり」と言い、常山と号するほど故郷を愛していた。それは晩年、市内から北へ二十キロ、西山の地に隠居所として西山荘(せいざんそう)を建てたことからも伺える。
故郷を愛した光圀―「常州水戸の産なり」
歴代水戸藩主のうちで光圀だけが水戸生まれであり、自ら「常州水戸の産なり」と言い、常山と号するほど故郷を愛していた。それは晩年、市内から北へ二十キロ、西山の地に隠居所として西山荘(せいざんそう)を建てたことからも伺える。
水戸藩主となった光圀は江戸の水戸屋敷住まい(今の後楽園)で、その間十一回しか水戸城に帰って来ていないが、晩年の十年間は西山荘に腰をすえ、「大日本史」編纂に専念した。またその一方で、交通の便の良い西山荘から、ほとんど徒歩で領内をくまなく訪ね歩き、歌を詠み、釣りを楽しみ、花見をするなど遊び心も大いにある粋で親しみやすい殿様だったらしく、今でも光圀が立ち寄った民家、光圀が好きだった花木等々、数えきれないエピソードが残っている。
村々を訪ねる光圀は豪農の家や寺院に宿泊し歌人を集めては会を催し、土地の物産を保護奨励した。今でもリンゴ、コンニャク、小粒大豆(納豆用)ソバ、わさび、たばこ、茶、和紙、硯など地場産業として残っている。さらに錫鉱山を開いたり、刀工や漆器の職人の育成に力をそそいだ。また光圀が好んで花の時期に訪れた枝垂れ桜の名木や、袋田の滝、山田川の百目木淵など光圀が広めた名所も数多くあり、現在観光のポイントになっている。
「大日本史」編纂は光圀が三十歳の時に着手したものである。江戸の駒込の屋敷に史館を建て、専門の学者と共に始めたのが、やがて史館を小石川に移し「彰考館」と名付けた。彰考館というのは、「彰往考来」からとったもので、その意味は、「古来からの歴史を明白にし、これからの人の進むべき道を考える」ということであり、正しい日本の歴史を書き残そうという光圀の考えからついた名前である。その後、彰考館は水戸の城中に支局が置かれ、江戸と水戸の両方で続けられた。一七〇〇年、光圀(七十三歳)が西山荘で没するまでに「大日本史」の中心部分はほぼ出来上がってはいたが、その後の代々藩主にこの大事業は継続され、完成したのは、何と支局開設以来約二百五十年後の明治に入ってからのことであった。
「大日本史」は、本紀・列伝・志・表の三百九十七巻から構成され、本紀は、神武天皇から後小松天皇に至るまでのそれぞれの天皇が行った政治の様子を描いている。列伝は、皇后・皇子・天皇の家来・将軍の伝記などを、志は、国の文物・制度・典章などを、表は、本紀・列伝を読むための参考書を書いたものである。
この事業に携わった学者は光圀の時代だけでも百三十人にのぼり、全国各地から集められたが、その中の二人の佐々(さっさ)十(じっ)竹(ちく)と安積(あさか)澹泊(たんぱく)は、助さん、格さんのモデルと言われている。この「大日本史」は、偕楽園隣りの常盤神社にある「義烈間館」に展示されている。