質素倹約をむねとした斉昭

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斉昭は藩政の主なものとして、士民の贅沢を禁じ質素倹約令をしばしば出したが、斉昭自身も一年を通して綿や麻の着物を着て手本を示したと言われている。また、近海に姿を見せる外国船に備え、海岸に武士の土着を実施し、那珂湊に砲台を築くなど軍備の充実を図った。さらに検地を行い、農民の年貢の不公平をなくし、また一方では、医学にも力を注ぎ、郷校や弘道館で医学教育を行った。本間(ほんま)玄調(げんちょう)らとともに、水戸藩内で種痘を実施し天然痘から民を守ったことはよく知られている。

斉昭の功績と言えば「弘道館」と「偕楽園」に代表されるのだが、水戸藩校弘道館は医学、武術、天文学などを研究した総合高等教育の機関で敷地面積(五万四千坪)は日本一であった。この弘道館は藤田東湖や会沢正志斎などの考えを取りれて天保十二年(一八四一)に設立され、明治五年までの三十年間水戸藩の藩校として活躍した。


弘道館

弘道館の設立と同時に進められていたのは、日本三大名園のひとつと呼ばれれる梅の「偕楽園」である。

この名称は、孟子の言葉にある「古(いにしえ)の人は民と偕(とも)に楽しむ、故によく楽しむなり」から斉昭公がとったもので、その名称の通り、庶民一般にも入園が許されていた。園内約十四万平方メートルのほぼ半分は梅林であり、約百種の梅の三千本が花と香りを競っていた。梅は異名を「好文」と言い、学問芸術を愛好するという意味があり、これが水戸藩の家風になっていた。ゆえに斉昭は偕楽園内の山荘に「好文亭」と命名したのである。


好文亭