明治時代に入ってから近代水道の発足をみるわけであるが、欧米文化の輸入のうちでも特に水道が早い方に属することは注目に値する。これは当時の消化器系伝染病の大流行という全国民を恐怖のどん底におとし入れた事情を背景としているのである。
安政条約により外国人の往来が始まると、間もなく外国からの病原菌の侵入が始まり、維新前の文政五年(一八二二)と安政五年(一八五八)には既にコレラの大流行が発生している。続いて明治元年(一八六八)から明治二十年(一八八七)までの間をみると、コレラの流行しない年はなく、患者総数は四十一万二千五百七十人(死亡二十七万三千八百十六人)に達している。また、赤痢は明治十一年(一八七八)以後、毎年発生し、患者総数は十五万七千八百七十六人(死亡三万八千九百九十六人)、腸チフスも同様に明治十一年以後毎年発生して患者は、二十五万八百六十七人(死亡五万九千三百五十人)に達している。
この対策として政府は、明治十一年五月に飲料水注意法を制定し、大阪府は、明治十八年八月に大阪府飲料水営業取締規則をそれぞれ制定している。当時の東京はまだ神田、玉川両上水に依存していたが、大阪市、横浜市などは河水を水売りの手によって求めていた所が多かったし、その他の都市においても井戸などの構造、環境が悪くて伝染病流行の大きな原因をなしていた。
このような事情を背景として各地に水道施設に対する機運が高まって来たので、明治六年(一八七三)には横浜市に早くも小規模な木管水道が竣工したのである。