■ 水戸の埋蔵文化財

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大串貝塚

解説

大串貝塚は、吉田台地の東端部の斜面下に広がる縄文時代前期前葉(約5千年前)に形成された斜面貝塚で、奈良時代にへんさんされた『常陸國風土記』に記載された文献に登場する貝塚としては世界最古のものです。縄文時代前期には気候の温暖化が進み、海面が上昇したこと内陸部(水戸市では千波湖付近)まで海岸線が及んでいました。大串貝塚から出土した貝を調べるとヤマトシジミと呼ばれる汽水域(海水と真水が混ざる空間)に生息する貝が大部分を占めていることから、大串貝塚の周辺は外海から隔てられた水深の浅い水辺の環境であったと考えられます。また、大串貝塚が形成されている斜面の台地のえんぺんでは、発掘調査で同時代の竪穴住居跡が確認されていることから、台地を取り囲むように集落が建ち並び、日常生活の中で生じたしょくりょうざんを数百年にわたって斜面へ投棄した結果、貝塚が形成されたと考えられます。

出土品

大串貝塚出土深鉢形土器(水戸市指定文化財)
大串貝塚出土深鉢形土器(水戸市指定文化財) 3D画像大串貝塚の発掘調査で出土した外面に鳥の羽のように縄文が施文された深鉢形土器は、縄文時代前期はなづみそうしき期に帰属する土器で、出土した貝類の大部分を占めるヤマトシジミやマガキ等の煮炊きに使用されたと考えられます。この時期の土器は胎土に獣毛や植物等の繊維が練り込まれ、焼成時に繊維が焦げることで隙間が出来るため、壊れやすく、大きな破片や完全な状態で出土することは極めて稀です。一緒に出土している骨角製の釣針・とつとともに、海浜部の縄文集落で展開していたぎょろう・狩猟活動の実態を知る上で重要な資料です。

発掘調査報告書

北屋敷古墳群

解説

北屋敷古墳群は、吉田台地の東端部に近い標高約15mの台地上に営まれた、円墳(第1号墳)と前方後円墳もしくは円墳(第2号墳)の2基から構成される古墳群です。第1号墳は東水戸道路敷設に伴う発掘調査の際、ぎょうかいがんの切り石を積み重ねた横穴式石室と古墳の周囲に廻る円形の周溝が発見され、横穴式石室内から直刀3口、小刀3点、てつぞく30点などの副葬品が出土しています。埴輪が樹立されていないことから6世紀末~7世紀初頭頃に築造された円墳と考えられます。他方、第2号墳は、水戸市道常澄6-0008号線敷設に伴う発掘調査で発見されました。墳丘の形は後世の土地利用により著しく変形しているため、判然としませんが、市指定文化財となっている武人埴輪のほか、男子・女子・馬を表現した埴輪や円筒埴輪が多数出土し、埴輪の製作技法から6世紀後半頃に築造された古墳と考えられます。

出土品

埴輪武装男子(水戸市指定文化財)
埴輪武装男子(水戸市指定文化財) 3D画像大串町地内に所在する6世紀後半に築造された北屋敷古墳群第2号墳から出土したもので、右腕と脚部以下を欠失していますが、保存状態は良好です。頭にはまるびょうで止めたしょうかくつきかぶとを被り、顔の両側には長方形のざねを先刻したしころを着け、顎には丸玉を飾り、小札付のけいこうを着用しています。左腰にはまがりかねで飾ったはいようし、顔面と腕・錣・挂甲などには顔料塗布による鈍色の彩色が残っています。こうした彩色のある埴輪は県北地域に多くみられ、埴輪製作者集団の移動や埴輪製作遺跡から古墳への供給関係を考えるうえで貴重な資料です。

発掘調査報告書

日新塾跡

解説

日新塾跡は江戸時代後期に成沢なるさわむらの庄屋であった加倉井砂山かくらいさざんによって開かれた私塾しじゅくの遺跡です。読書・算数・歴史・理科・乗馬・砲術・練兵れんぺいげきけん・詩文など文武両道を錬磨れんまする多様な教育が実践され、全国から入門を希望する者や遊学ゆうがくの徒が集りました。著名な出身者では、東京川崎財閥の前身である川崎組・川崎銀行の創始者川崎八右衛門かわさきはちえもん、明治政府で東山道軍総督府大軍監とうさんどうぐんそうとくふだいぐんかん皇后宮大夫こうごうぐうだいぶを務めた香川敬三かがわけいぞう、桜田門外の変に参加した齋藤監物さいとうけんもつがいます。
 平成16年から水戸市教育委員会による5回の発掘調査が行われ、近代母屋の礎石そせきがほぼ全面検出されるとともに、その直下から近世母屋の礎石そせきも確認されました。遺構いこうの良好な保全状況と遺跡の重要性を踏まえ、平成21年2月6日付けで市の史跡に指定されています。

出土品

日新塾跡出土オランダ陶器(水戸市指定文化財)
日新塾跡出土オランダ陶器(水戸市指定文化財) 3D画像オランダ南部マーストリヒトのペトゥルス・レグゥーようで1856年以降に生産されたファイアンス陶器のわんで、日新塾の母屋から出土したものです。蘭学らんがくに強い関心を持っていたじゅくしゅ加倉井かくらい砂山さざんが特別に買い求めたものである可能性が高く、欠けた部分も細かな破片まで拾い集められてうるしぎがなされていて、日新塾内でも高価品として丁寧ていねいに扱われたことがうかがえます。県内唯一のオランダ陶器の出土例としてだけでなく、日新塾における蘭学らんがく摂取せっしゅの機運をうかがわせる物証として重要な意義を有するオランダ陶器です。
日新塾跡出土陶製便器
日新塾跡出土陶製便器 3D画像日新塾の母屋から出土した1870年代以降の近代の陶製便器で、素焼すやきした後,はくでいを全面に塗布し、その上からコバルト染付そめつけにより、上部に連続するうずもん草花そうかもん金隠きんかくしの内外面に「牡丹ぼたんに鳥」もんひしがきもん、側面にらいもんを描いています。日新塾が明治10(1877)年に火災で近世期の母屋が焼失した後、再建された主屋に設置されたものと考えられます。