解題・説明
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①②③④明治二十七年、消防法の改正で水戸市消防組ができた。人員は三百名。それが十一部に分かれ、第一部から第六部までが上市、第七部から第十一部までが下市組となっていた。その後消防器具の増加に伴って人員もしだいに増加し、明治末には四百六十六名となった。しかしそのころになってもポンプは依然として旧式な手押しポンプが各部に一台ずつの配置だったから、大火には間に合わなかった。大正六年、市内の有志がガソリンポンプ一台を市に寄贈したが、これが水戸市消防の動力化の初めで、自動車ポンプになったのは昭和に入ってからのことである。写真の大正時代の消防スタイルは、江戸火消しの姿からちょんまげを取っただけの、昔ながらの刺子(さしこ)に半纒(はんてん)。下は紺ももひきをはき、頭には刺子の頭巾をかぶり、これで火の中へ飛び込んだ。どの写真にも見える纒(まとい)は、もとは戦陣で本陣の目印にしたものだが、これが江戸時代から火消しの組のシンボルとなり、白い頭部を思い思いのデザインにして中に文字やマークを書いた。鎮火間近になると消し口の要路に立てたこの纒を隣家の屋根に立てて、消火の功を競った。
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