(一)小倉小笠原藩の成立と藩校思永館

 小笠原氏は清和源氏の後裔、加賀美遠光の次子長清が甲斐国巨摩郡小笠原村に拠り、その地名を姓としたのに始まる。遠光・長清父子は源餘里との挙兵に応じて戦功をたて、文治元年(1189)遠光は信濃守に任じられ、信濃伴野庄に居住して貞宗まで7代におよんだ。元弘の変では、貞宗は北条氏のもと笠置攻めに従ったが、のち足利尊氏の挙兵に応じて軍功をたて、信濃守に任じられ、以後信濃に地盤をすえた。しかし、室町時代の嘉吉の内訌により、小笠原氏は府中、伊那松尾の両派に分裂し、応仁の乱の東、西両軍の対立にも同氏の内紛は関係していた。
 府中小笠原の系譜をひく貞慶・秀政父子は、徳川家康に仕えていたが、天正18年(1590)家康の関東入部に際して下総古河に移り、次いで信濃飯田、同松本へ移封された。大坂夏の陣で秀政・忠脩父子が戦死すると、忠脩の弟忠真が父の遺領をつぎ、元和3年(1617)播磨明石に移封となった。忠真は、寛永9年(1632)肥後熊本の加藤忠広の改易により移封となった細川忠利の跡地、豊前小倉15万石に加増・移封となった。ここでは本州・九州間の関門海峡を扼する九州鎮護の要務を遂行する関係上、豊前中津・龍王、豊後杵築の各領主に忠真の近親者が任じられ、忠真の指揮下に属したが、この態勢は幕末まで続いた。
 小倉小笠原藩の藩学は、享保10年(1725)3代藩主小笠原忠基の襲封、代替り条目のうち「武芸文学ヲ第一」と記した箇条や、元文4年(1739)京都の朱子学者石川麟洲を招聘、侍読としたことなどに、その隆盛の端緒をみる。次の4代藩主忠総も、宝暦2年(1752)の代替り条目で「文武之業」の修得を諭達、同8年5月には麟洲の家を公開の塾、思永斎と称して、藩士の修学の場とした。「思永」の名辞は、『書経』巻二から採ったものである。安永2年(1733)石川彦岳が増井玄覧に次いで御書斎頭取に任じられたが、天明8年(1788)藩主忠総は、小倉城三の丸に書斎地面を拡げて武芸稽古場も建て、翌年正月より文武惣稽古を開始し、すべて学館(思永館)ととなえ、その初代学頭に石川玄岳を任命した。寛政3年(1791)には、江戸神田橋の藩邸に小倉藩士関係者の教育機関として学問所を設け、玄岳も出府講義したが、その文武講習は思永館学則に準じている。
 寛政6年には習読書目を制定しているが、その中に『王代一覧』『本朝通鑑』『日本書記』などの書名を見るのは、この当時の国学の勃興を反映するもので、国書類の収蔵も増加した。
 天保8年(1837)小倉城は出火により天守以下、居館すべてが焼失し、思永館も類火に遭ったが、同10年には再建されたようである。同14年、7代藩主忠徴はその代替りに、「学問ハ孝経・四書五経素読」から始めて徳業を成就し、「文武芸術ハ各一流宛、得手之芸ヲ習覚へ」た上で、幾流も修業するよう諭達した。その意義を明示したのが、学頭矢嶋伊浜の『思永館御条目義解』であり、これにもとづき学則(習業の書目・科目・期限)が改訂されたが、この頃から小笠原礼法が重視されている。弘化2年(1845)江戸湯島の聖堂に倣い、学館内に孔子像を安置して釈奠をおこなうことになり、弘化年間には医学講習所も設けられ、長崎への藩費遊学生には蘭学を修めさせた。文久2年(1862)の9代藩主忠幹による学制布達では、「外夷通行等、不容易時勢ニ候得ハ、別テ文武実用」が重要と指摘されているが、慶応2年(1866)の幕府による長州再征に際して、小倉藩は長州藩に敗れ、小倉城は自焼して思永館も閉鎖し、藩庁は田川郡香春に移された。
 なお、思永館の教職員は、学頭以下の教員(文学・武芸)48人、事務員5人、給仕・門衛など7人を数えるが、生徒数は江戸時代後期が500余人、明治初年の香春時代がその2倍程度である。これは生徒の入学資格が士分以上、次いで卆(足軽等)の上位者に限られ、慶応頃から下卆にも門戸が開かれたからであろう。授業内容は、孝経や四書五経の素読・輪読、また和漢の歴史・法律・政治書などで、藩主は参勤・帰国前後の試験、3年1度の大試験に臨席、優秀者を賞与した。思永館内を表御門から見ると、右棟が柔術・撃剣場と武術・兵学教場が連結し、左棟は長刀・槍術場、武術教場、藩主の御覧場と続く。両棟の先が馬術用の馬場と明善門、この門内の正面が学問所の玄関・文学教場・御居間が連なり、その右手に聖廟・文庫があり、また明善門の右手には弓砲教場もあった。これによって、思永館の教育組織と授業科目の一端を推察することができる。