(二)幕末維新期の藩校香春思永館と錦原(豊津)育徳館

 慶応2年(1866)幕府の長州再征は、小倉を戦争の主舞台の一つとし、九州の諸藩軍も豊前に集結したが戦意なく、長州藩に攻められた小倉城は自焼して、小倉藩軍は企救・田川郡へと後退、この地で交戦した。朝廷は将軍徳川家茂の死没を契機として戦闘停止を沙汰したが、長州藩はこれをやめず、漸く翌3年に和議が成立、熊本などへの避難者は香春へ引揚げてきた。藩校思永館は5月に再開、その支館も上赤村照福寺など5ヵ村の寺院に設置された。支館は実際には11ヵ村が計画されたが、実現しなかったものが多い。もっとも、明治元年(1868)には和算教場も設けられた。
 翌明治2年、香春藩では恒久的な城地を仲津(現・京都)郡錦原に求め、藩庁および藩校の新築をはじめ、同3年正月に藩校育徳館を開校、藩名も豊津藩と変更した。育徳館では士族・平民の別なく入学を許し、「皇・漢・洋ノ三学ヲ並用ヒ、旧習ヲ一新スルノ制」が施行された。また、福岡県下では最初の洋学校が大橋御茶屋に開設されたが、その一部を育徳館に移している。その中学校学則が示す教科内容には、読書・輪講に『神皇正統記』『日本政記』『日本外史』『職原抄』『令義解』や『書経』ほか、洋学に天文地理・器械化学・『究理大略』ほか、数学に開平開立・二次方程式・幾何・平面式ほか、さらに六国史・日本史・万国史学・万国地理などが教授され、さらに錬兵・剣術・柔術・試銃・水泳などがあった。専門学則としては、武学が歩兵・砲兵・築造の各将校科で、それぞれ広範な学術習業を必要とし、文学では政律・文事・利用の各科からなり、全体として驚くほど高水準の教育内容であった。
 こうした藩校育徳館も、同5年政府が学制を頒布して全国の藩校を廃止したため、翌6年に廃校となり、後継の大橋洋学校を豊津に移して合併し、私費経営の育徳学校として再出発する。なお、これより先、同4年より江戸藩邸、そして大橋洋学校で英語・ドイツ語・数学などの教鞭をとっていた蘭人教師ファン・カステールを、同6年豊津の育徳学校に移したが、それは福岡県最初の西洋人教師の招聘でもあった。しかし、同校も経営難のため直ぐ閉校、第十三番中学校育徳学校と改称して再興し、文部省の中学教則改正により下等中学教則が実施されたが、同9年には東京中学師範学校に準ずるものとなっている。