明治12年(1879)9月、第十三番中学校育徳学校は教育令により福岡県立中学となり、豊津中学校と改称したが、同15年には小笠原家の寄付金2万円と有志の分とを基金とし、財団法人豊前育英会の会則ができている(なお、その恩典に浴する者は第二次世界大戦後までに数百人に達し、その残金全額が昭和32年豊津高等学校70周年記念事業として図書館の建設、その付属建物として小笠原文庫の建設の両費用に充てられた)。同20年5月、中学校令により豊津中学校は廃校、1ヵ月後に豊津尋常中学校として再建、開校となったが、その翌年には米人教師エルマー・イ・ハッバートを招聘している(5ヵ年教鞭をとる)。同33年には全額の県費支弁の学校となり、翌年に福岡県立豊津中学校と改称、年を越して現存の講堂も新築され、大正14年(1925)に県立名が消えた。第二次世界大戦後の昭和23年4月、学制改革により福岡県立豊津高等学校となり、生徒自治会・PTAなどの総会が設立された。
一方、明治45年に設立された京都郡立豊津実業女学校は、大正に入り行事実業女学校を併合したりしたが、大正12年福岡県立京都実業女学校、その2年後には県立名が消え、昭和5年に福岡県京都高等実業女学校、そして同14年に福岡県豊津高等女学校と改称を重ね、昭和23年4月に福岡県立豊津女子高等学校となった。
その翌24年4月、福岡県立豊津高等学校と同豊津女子高等学校が実質的に統合、8月末日に前者の名称となった。その間、7月には旧藩主家の小笠原忠統氏が来校、旧藩時代の古文書・古記録、古絵地図および器物等、約1000点にのぼる貴重な郷土資料を寄贈された。25年5月、男女両校の同窓会を統合して錦陵同窓会となり、新会則が制定されたが、27年9月に校舎の増改築が完成して、その記念式には小笠原文庫資料の展覧がなされ、思永館(第一体育館)で祝賀会が開かれている。32年正月、創立70周年記念図書館の建築が始まり、5月の記念行事までに全館の竣工を見たが、その初公開の記念図書館では小笠原文庫の展覧などがあった。この記念事業には、内藤経光氏(行橋市)の藩主小笠原氏の花押印・豊津藩印・『京都郡新津手永山鑑』ほか、井上貢氏(同)の小笠原家定紋入箭筒覆革・「明治九年育徳館職員俸給表」、竹内惟文氏(犀川町)の『慶応二年小倉追書』ほか、古賀武夫氏(豊津町)の『資治通鑑』以下、また各氏によって地券・卒業証書・杉山元帥遺品・書画・写真・歴史書・文芸書・辞書・太刀・木盃・石柱・玉砂利などが寄贈され、その大部分が小笠原文庫資料の中に包摂されている。
小笠原文庫資料は、上述の小倉・香春・豊津各藩時代の歴史的推移と軌を一にした藩学、その中でも藩士教育を主目的として蒐集された典籍(国書・漢籍)と史料、さらに明治以降の私・公立学校時代の諸資料から構成されている。それらは藩校思永館・育徳館などの学問・教育は言うにおよばず、政治・外交・経済をはじめ社会の実相をうかがいうる貴重な郷土資料群といってよい。ここでは史料・漢籍・国書の順に、その概要を述べることにする。