A:史料

AA
 中世関係の文書・記録は比較的少ないが、『小笠原家古文書』は写本ながら極めて重要な内容のものである(なお、有職故実の中にも、中世史料として看過できぬものが豊富に含まれている)。
AB
 家譜・系図類には、小笠原家を中心としたものが厖大で、家臣の分も決してヒケをとるものではない。小笠原家中心の藩史も、江戸時代中期以前の分は詳細で、「藩翰譜」が取揃えられているのは、他大名家に関する知識も必要不可欠とされたのであろう。
AC
 政治関係では、江戸時代初期から幕末期までの知行宛行状・領地目録が写しとはいえよく残り、また朝廷からの官位叙任の口宣案・宣旨の写しも揃っている。幕府の日光社参や巡見使応接記録なども若干残るが、大名の手伝普請に関する記録は、江戸時代中期以降の分とはいえ豊富である。維新期の藩制関係のものも数多い。藩行政のうち地方関係では、安永年間の安武手永の諸帳簿は比較的よく纏まっていてバラエティにも富み、また孝行・奇特者に関するものも少なくなく、藩行政のあり方の一端がうかがえる。小倉藩でも財政窮乏に悩まされたためか、「献言御国益融通之秘書」などもある。実際の貢租については、領内6郡の村数本免帳や小物成・酒造・船株帳が残る。
AD
 法制関係では、『公事方御定書』『官中秘策』『柳営秘鑑』など、幕府法制に関連する書物を取揃えており、司法の実刑として領内の死罪者を書上げた『行刑録』がある。
AE
 土地・人口関係では、江戸時代中期以降の『豊前国小倉領郡村高辻帳』以下の郷村高帳など、京都郡・仲津郡各手永の御山鑑・御山式御改帳などが多く残り、また明治初期の地租改正に関する差出帳や地券もあるが、『豊前国企救郡・田川郡・京都郡・仲津郡・築城郡・上毛郡之内、人数帳』『豊前国小倉領家中郡町人数并戸数高辻帳』、さらに企救郡の竈数人数書上帳などが存在する。なお、江戸時代後末期の小倉領小祝浦と中津領高浜との漁業争論は、幕府評定所の裁決を求めるところまで発展したが、その替地一件の交渉記録など、中津藩のそれと併せて重要史料といえる。
AF
 対外関係では、延享・宝暦・文化年中の朝鮮通信使に対する小倉藩の準備・応接記録をはじめ、藩主小笠原忠固の書契など重要なものが多い。一方、宝永~享保年中の『唐船漂流記』や『琉球人来聘控』などは数は少ないが、見遁せぬ史料である。他に、幕末期の攘夷関連の日記・記録も残っている。
AG
 軍事・騒動関係では、文化12年の「白黒騒動」(「小倉御家中騒動」)とも呼ばれる藩政の実権争いの記録、また中央政局関連の分もあるが、明治初年の戊辰戦争ー特に奥羽越列藩同盟との戦争ーに派遣された小倉藩士の出兵日記や関連記録などが多い。また、同3年の豊後日田郡一揆、豊前田川郡一揆の史料もあるが、同9年の秋月の乱関連の史料は士族反乱の研究上、貴重な内容のものである。
AH
 文化と宗教関係では、文化のうち、学問については、藩校思永館・育徳館とそれ以降の学校図書備品・教材として利用されたものが大部分と思われる。特に、国書・漢籍(後掲の分)は、藩主以下による藩学振興のための貴重図書として国内外から積極的に輸入・購求されたものである。洋書類は明治以降、洋学受容の必要もあり購求したほか、旧藩主以外からの寄贈分なども含まれる。和本とした分には、哲学・思想・地理・数学・博物・物理・化学など広範な分野のものをふくめたが、藩校教科目との関連性もあろう。教育については、思永館から豊津高等学校までの設置沿革から変遷・発展を示す諸資料が多く残り、特定校ながら近代教育の実相をうかがいうる貴重なものとなっている。学校の建設・増改築や運営とその諸経費をはじめ、学業の成績一覧・学籍簿・卒業証書・育英会関係その他の諸資料、さらには俳句・歌書・詩文集・書画・写真・新聞雑誌・歴代の藩印・校印などまで実に豊富、網羅的である。宗教のうち、神社関係としては、田川郡の英彦山関連に興味深い内容のものが含まれ、他に明治初年の豊前京都・仲津・田川・上毛郡の神社記なども書上として纏められている。寺院については、小笠原家由縁の広沢寺や福聚寺に関する書誌銘などがある程度で、数少ない。
AI
 日記・記録類では、明治3~4年の太政官・外務省・民部省各日誌が豊富に揃っているが、これは各藩史料に共通するところである。小倉藩関係の『旧新雑録』や『御当家末書』は合わせて38册、さらに安政・文久・元治・慶応各年の記事や慶応2年の各月分日記、同2・3年の『小倉追書』や『豊倉記事』、同2年の『香春・西京来状追書』などは数量も厖大で、小笠原家と小倉藩・香春藩の政治・社会・宗教はもとより、幕末政局の動静等を知る上でも必須の貴重史料群である。郡関係では、養蚕・郡中諸産物の書冊があるが、経済面として明治13年以降の石灰商社株式券・国立銀行株券証・軍事公債売渡証・南満州鉄道社債など、時代を反映したものが一部残存する。
AJ
 有職故実関係、特に小笠原家の武家故実などの各書冊は、この「史料」の部でも特筆すべき重要性をもち、この関係の研究上、必要不可欠のものとされてきた。ここで小笠原流の淵源について簡単にふれておくと、小笠原家は清和天皇の6男貞純親王の嫡子源経基の流れをくみ、先述の加賀美遠光から子の小笠原長清に連なる。この貞純親王が編み出した弓馬の法は、遠光から長清へ、以後小笠原家の正統を継ぐ者へ伝授され、これを糾方的伝と呼んだ。長清は将軍源頼朝の弓馬の師範となり、笠懸・流鏑馬・犬追物など武家の儀式を定め、6世の孫貞宗も後醍醐天皇の師範として「修身論」を献上して礼法を定めたという。室町幕府の将軍足利義満は、貞宗の曽孫小笠原長秀ら3人に武家の礼式を定めた『三議一統大雙紙』を撰述させたが、内実は長秀1人の筆とされる。また、信濃守護小笠原持長にも『射礼私記』があるが、その子孫すべて江戸時代まで伝統を継承した。ここで小笠原流に関連する、①武家故実の一般的なものを示すと、伊勢貞丈の『政所賦銘引付』『武門故実百ヶ条』『貞丈雑記』や、小笠原長時・貞慶の『御家法軍礼記』以下である。軍陣としては、一般的な軍陣配列図や諸士指物図、大砲・鉄炮斜列図、海戦 配列図などがある。また、②武芸のうち弓馬法としては、小笠原家の『弓馬并万聞書』『弓馬之書』等々があるが、弓法一般としては、同家の『当家弓法大草紙』『弓礼秘伝抜書』などや伊勢貞丈の『射家妄説集』『大永聞書」以下、実に数多くの書冊・巻物な どをみる。歩射については『弓射故実書集録』などのほか、数多くはない。騎射関係で は、伊勢貞丈の『狩詞之詞』や『騎射秘抄』のほか、笠懸が『笠懸射様之次第』『笠掛集覚書』以下、また犬追物がその礼法書や『犬追物目安』以下、数量は多い。馬術では、小笠原家の『御馬法書物』『休庵聞書』『当家馬手綱口伝書』以下、きわめて豊富な内実と数量を兼ねそなえている。さらに、③調度・具足としては、伊勢貞丈の『五武器談』『源家八領鐙・源家鐙之考』などや小笠原家の『御当家小具足御召初之次第』などに見るべきものがある。④装束・飾物としては、『装束知新抄』『平義器談』をはじめ、『御当家御嶋台故実』などがある。さらに、⑤年中行事としては、室町幕府や関東公方の礼式『長禄二年申次記・成氏年中行事』がこの時期の政治情勢を知る上に特に重要で、江戸時代の大名家臣の『在府在邑年中行事』も職務や生活実態を示す点で看過できない史料である。⑥生誕と冠婚については、室町幕府の殿中故実『産所記』や、「御当家七五三」など、さらに室町将軍の『元服記』や小笠原家の『元服之次第』『祝言聞書』などがある。⑦礼法と躾方としては、『御当代書札集』『雑礼』以下、『女礼抄』『女中年鑑』『万躾方之次第』ほか、見るべきものがある。⑧料理については『御招請配膳手続』『江戸屋鋪衣食贈答之定』など数量も豊富で、料理作法書を合冊したものもある。
AK
 地図・絵図類では、元禄14年の「豊前国絵図」と小倉・中津領図をはじめ、小倉領境・諸川流域の絵図、小倉・長州藩の戦争要図、郡図などがあり、また「日本近海諸国諸島図」、江戸湾・琉球などの分までおよぶ。他に、小倉城とその城下・湊口などの絵図・地図、江戸藩邸の上・下屋敷、伏見武家屋敷図、長崎御用場の借地絵図、それに「旧小倉藩士邸宅図面明細表」など、小倉藩の実態を知る上に参考になるもののほか、高波被害図や一部ながら村図などもある。
 (丸山雍成)