低地は今川流域の低地と祓川流域の低地があり、その両者は異なった性格を持っている。今川流域の低地は、いわゆる谷底平野としての性格を持っているが、祓川流域の低地は扇状地としての性格を持っている。すなわち、豊津町の北縁部での今川流域の低地は一二~一三メートルの海抜高度で、祓川流域の高度は一八~二〇メートルであり、南縁部付近では、今川流域で二〇~二五メートル、祓川流域では七五~八五メートルで、明らかに祓川のほうが急勾配で流下している。
今川流域の低地は、犀川町本庄では盆地的な状態を示し、豊津町高崎―彦徳付近の最後の峡谷部を通過して行橋平野の低地部へ入るが、峡谷部より下流の行橋市天生田、流末付近では低地の河道跡から、旧今川が大きく蛇行して流れる様子が分かる。これは三角州上を流れる河道の特徴を示す。
一方、峡谷より上流側の低地は犀川の盆地部を形成するが、犀川町花熊の集落は馬ヶ岳山地からの扇状地上に立地し、続命院、古川などの集落は一段高い低地面に位置する。それらの集落から今川現河道までの地域では、河道変遷が著しく、それも基本的には山側から現河道側へ徐々に移動しているようにみえる。この河道変遷が著しい地域は、いわゆる氾濫原に相当する地形で、陸化は最も遅い時期であったと考えられる。
祓川流域の低地は、犀川町犬丸―豊津町節丸間の最後の狭窄(きょうさく)部から谷幅が広がり、活発な河道変遷を行うようになる。綾野―徳政より下流は、祓川の現成の扇状地で、扇状地上を流れる網状流としての河道跡が顕著である。しかし、国作付近には明瞭な河道跡がみられない。
惣社から竹並に至る河道跡は、豊津原の開析谷の連続であり、祓川の旧流路は不明瞭である。このことは、この地点がかなり古い時代から祓川の氾濫の影響が及ばない高燥な地域をなしていたことを示している。豊前国府は国作の、この微高地上に位置しており、洪水に対しては比較的安全な場所に置かれていたと考えられる。