歴史時代の遺跡としては、白鳳時代の上坂廃寺、奈良時代から平安時代の豊前国府およびそれに関連した国分寺、国分尼寺の跡が主としてみられる。
上坂廃寺は祓川左岸の沖積面上に位置し、豊前国分寺の経蔵跡、あるいは国分寺の前身寺とも伝えられている。地形的にみるとその一部に祓川の河道跡がみられ、祓川の河道変遷の過程でこの寺が放棄された可能性がある。
豊前国府については、その所在に関して幾つかの学説があるが、豊津町国作に存在した可能性が最も高い。豊津町(一九八五)の推定する方六町説による府域にはその東西に河道跡がみられるが、西側の河道跡は、主として国分から高位段丘面を開析する谷の河道跡であり、東側の河道跡は、祓川の沖積面の河道跡でもかなり古い時代のもので、いずれも直接的に国府の存在を危うくするものではない。国府は、地形的には洪水の影響の小さい高燥な部分に立地しており、国府の廃絶はむしろ政治的な原因によると考えられる。国分寺および国分尼寺はいずれも高位段丘面上に位置している。