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中期

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今から約五〇〇〇年前に始まる中期は縄文文化が頂点を極める時期である。関東地方では半截(はんせつ)した竹やヘラで施文する竹管文系土器が現れる。中部地方では火炎土器、東北地方でも円筒土器などに隆帯文や波状口縁などの立体的な造形が目立ち、人面や人体形象文を表現するものもある。西日本では近畿・中国地方の船元(ふなもと)・里木(さとぎ)式土器、九州の阿高(あたか)式土器などが成立するが、東日本のような豪華な文様は未発達であった。阿高式土器は西九州の中期後半の土器で、前期の曽畑式土器と同じく胎土に滑石粉末を含み、太い凹線による曲線的な文様を施す(第2図参照)。なお、土器は食物の調理以外にも、乳幼児を埋葬する甕棺(かめかん)、住居内の床への埋甕(うめがめ)、炉のなかの火鉢としての埋甕などに使用されるようになった。


第2図 北部九州の縄文時代草創期~中期の土器
(小池史哲『豊前市史』より)

 石器の面では打製石斧が大量に作られており、中部地方から関東西部地方を中心とした地域でイモ類を栽培する際の土掘り具として使用したとする「縄文中期農耕論」の論拠ともなっている。他の地域でもこのような植物性食料の原始的な栽培が行われていた可能性はある。