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晩期

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今から約三〇〇〇年前に始まる晩期には、列島内は東西で異なった土器を製作するようになった。東日本では、磨消縄文手法を受け継いだ亀ケ岡(かめがおか)式土器が広範囲の分布圏を誇った。一方西日本では、縄文などの装飾を施さない磨研土器が後期に続いて流行した。磨研土器は表面を丁寧に磨いた土器で、精製土器である。器種としては、深鉢・浅鉢・椀(わん)・高坏(たかつき)・注口土器などがある。これに対して、表面の整形が貝殻などの条痕やナデ調整のままで使用する粗製土器がある。粗製土器の器種は一般的に深鉢や甕形土器である。九州地方では、晩期前半には口縁部が「く」の字形をなし、上端部にリボン状の帯を張り付け、胴部上位が強く屈曲する精製土器の浅鉢が代表的な器形である(第4図参照)。後半になると口縁端部に刻み目の突帯をめぐらす甕形土器が使用され、壺も作られる。これらの甕や壺は、弥生時代に受け継がれる。

第4図 北部九州の縄文時代晩期の土器

 晩期後葉には北部九州の玄界灘沿岸の遺跡で、太形蛤刃(ふとがたはまぐりば)石斧・扁平片刃(へんぺいかたば)石斧・石庖丁(いしぼうちょう)・磨製石鏃(せきぞく)・石剣などの大陸系磨製石器と木製農具が発見される。これらは水稲耕作に従事した集団の遺跡で、佐賀県菜畑遺跡などでは水田跡も発見されている。