縄文時代の墓地は、集落内部の広場かまたは近接した場所に設置される場合が多い。秋田県鹿角市大湯環状列石は多数の墓を径五八メートルの環状にめぐらせたものである。埋葬方法では、遺体の手足を曲げて埋める屈葬と、まっすぐに伸ばしたままで埋める伸展葬とがあるが、全国的には屈葬が一般的である。また、旧石器時代に比べ死者を丁重に葬る傾向があり、墓からは生前着用していた装身具が発見されることが多い。
土偶(第6図1~3)は約七五〇〇年前の早期前半のものが関東地方で発見されており、その後縄文時代を通して全国で製作されている。その形態は早期・前期では大まかな表現にとどまるが、中期になると顔面や手足が明りょうになる。またこの時期形態に地域差が生じ、中部地方では立体的な土偶が現れる。後期には山形土偶(1)・みみづく土偶(2)などが作られ、晩期には亀ケ岡文化圏で遮光器(しゃこうき)土偶(3)と呼ばれる大きな目が特徴の土偶が作られる。土偶が何を表現したものか定説はないが、遺跡で発見される場合、必ずといっていいほど頭や手足が壊されている事実から、なんらかの信仰儀礼に使用された道具であろうと想像される。
土偶のほかに縄文人の信仰を反映した遺物に、土版・岩版、土面、石刀、石冠、御物(ぎょぶつ)石器、石棒などがある(第6図)。土版・岩版(5・7・8)は東日本の晩期の遺跡から発見され、曲線や直線あるいは列点でさまざまな図形を彫り込んだ方形や楕円形の板状の製品である。土面(6)は各種の祭祀で使用されたと推定される土製の仮面で、後期・晩期の遺跡から発見されている。石刀(10)は柄を作りだした棒状の磨製石器であるが、実用的な武器ではない。石冠(12)は大きさが一〇センチメートル前後の石製品で、さまざまな形態があるが、冠ではなく非実用的な道具と考えられている。御物石器(13)は石川県比良遺跡で発見されたものが明治天皇に献上されたことから命名されたが、用途は不明である。中部地方の晩期の遺跡を中心に発見されている。石棒(9)は男性器を表現した石製品と考えられている。長野県佐久町北沢川から発見された石棒は全長二二三センチメートルを計る。人体の一部を表現した遺物は、ほかにも耳・鼻・口などの土製品や、女性器をかたどった石製品、手形・足形を押した粘土板などがある。これらの遺物は縄文人の精神的生活の所産である。
第6図 縄文時代の各種遺物