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集落と住居

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京築地域の縄文時代の遺跡のうち、竪穴住居跡が確認された遺跡は、後期と晩期に限られている。なお、後期については、近年集落単位の確認例が増加している。
 集落の立地環境についてみると、豊津町節丸西遺跡、椎田町山崎・石町遺跡、豊前市中村石丸遺跡、大平村土佐井遺跡のように、中小河川の自然堤防上ないし後背地に立地し、その背後には低丘陵が延びる共通性をもっている。この時期、沖積平野はまだ形成されておらず、集落を営む十分な平坦地が少ないため、水や食料の獲得しやすい場所が選択されている。集落の規模については、全体を調査した事例がまだないため即断はできないが、節丸西遺跡では周辺のトレンチ調査などから約一万八〇〇〇平方メートルの範囲に遺構・遺物が存在することが確認され、中村石丸遺跡でも遺跡全体の広がりは約四〇〇〇~五〇〇〇平方メートル程度と考えられている。ただし、同時に存在した住居は四、五軒で、集落の構成人員は二〇~三〇人程度であっただろう。
 住居跡の形態についてみると、前葉の小池原上層式の時期では、土佐井遺跡で平面形が直径四・五メートル前後の円形をなす竪穴住居跡(6号住居址)が確認されている。中葉の鐘崎式の時期には、山崎遺跡1号・3号・7号住居跡は隅丸方形または不整円形の平面形で、四~六・四メートルの規模を持つ。これらの住居跡の屋内炉は石組み炉である。次の北久根山式の時期では、山崎遺跡2号住居跡が長径八・五メートルの不整円形をなし、石町遺跡1号住居跡も長径七・四メートルの不整円形をなす。屋内炉は土器炉になっている。後葉の西平式の時期になると、原井三ツ江遺跡では四・五メートル程度の規模で、床面に地床炉を持つ住居跡がある。また、土佐井遺跡5号住居跡でも中央部に径六〇センチメートル程度の地床炉が設置されていた(第20図)。
 
第20図 縄文時代の各種炉跡

石組み炉


石組み炉


土器炉


地床炉