中期の遺跡は関東・中部地方に集中的に発見されているが、九州では前期に比べて著しい増加はみられない。土器は前半には並木式土器が、後半には阿高式土器が西九州を中心に分布する。これらの土器は胎土に滑石の粉末を含むことから前期の曽畑式土器の系譜をひくものと考えられる。なお、終末期には口縁部にのみ直線的な文様を施す坂ノ下Ⅰ式土器が西九州で、西和田式土器が東九州でみられる。船元式土器は口縁部下部が膨らむ器形をなし、瀬戸内周辺部に分布する。
前期以来、漁労活動とともに植物性食料の獲得が生活の基盤となっていた。石鋸(のこ)(第23図1)と呼ばれる長方形ないし台形の石器は銛(もり)として使用したと考えられているが、西九州海岸部の五〇以上の遺跡から出土している。また、長崎県つぐめのはな遺跡でも石鏃形の銛頭(第23図2)が二〇〇点以上出土している。一方、佐賀県西有田遺跡では二一基の貯蔵穴が発見され、内部からアラカシやイチイガシ・チャンチンモドキなどが検出された。