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稲作の伝来と伝播

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東アジアにおける農耕は、紀元前五〇〇〇年以上前に中国大陸の黄河流域の高原で、粟(あわ)作農耕として始まった。河北省磁山(ジーシャン)遺跡では約三〇〇基の食料貯蔵穴が発見され、紀元前五四〇〇年から五二〇〇年ごろであることが分かった。ほかにも黄河下流域の山東省北辛遺跡や、東北地方の遼寧省新楽遺跡でも紀元前五〇〇〇年から四〇〇〇年の農耕に伴う遺物・遺構が発見されている。
 一方、稲の原産地はアッサム・雲南省付近であるといわれているが、中国最古の水稲耕作文化は、長江下流の杭州湾に面した浙江省河姆渡遺跡で発見されている。この遺跡の第Ⅳ層からはコメとともに骨製の耜(すき)、木製の鏟(さん)などの水稲農耕具と木器製作用の石斧が出土している。この農耕文化はその後、北部の山東半島に広がり、朝鮮半島北部へはコマ形土器文化、南部へは無文土器文化の段階に伝わっている。最終的に、日本の北部九州の沿岸部に水稲耕作が伝播したのは、縄文時代晩期後半の時期である。なお、伝来のルートについては、これ以外にも山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島に及んだとする説や、長江下流域から直接日本に伝来したとする説、南西諸島を経由したとする説などがある(第1図参照)。

第1図 稲作伝来の推定経路 (工藤善通氏原図)

 
 北部九州の玄界灘沿岸に伝来した水稲農耕は、縄文時代晩期終末までに西日本一帯に広がる。鹿児島県下原・中ノ段遺跡、宮崎県学園都市遺跡、山口県延行遺跡、岡山県津島江道・沢田遺跡、愛媛県大渕遺跡、香川県林坊城遺跡、大阪府牟礼遺跡などがこの時期の遺跡である。その後、弥生時代前期の中ごろには関東地方から東北地方まで急速に拡大していった。青森県砂沢遺跡では、この段階の水田跡も発見されている。
 コメの品種はインディカとジャポニカに大別されるが、日本に伝来したのはジャポニカである。また、ジャポニカも温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカとがあるが、古くは熱帯ジャポニカも栽培されていたらしい。