稲作の確実な証拠となる水田は、一九四七~五〇年(昭和二十二~二五年)の静岡県登呂(とろ)遺跡の調査で発見された。しかし、この水田は弥生時代後期のものであった。その後、一九七八年(昭和五十三年)に福岡市板付(いたづけ)遺跡で確認された水田は、縄文時代晩期末の突帯文(とったいもん)土器単純期のものであった。この水田の場合、畦畔(けいはん)は杭(くい)を打ち込み、横板を渡して補強し、水田の東側には幅約一メートルの広い畦畔と大水路が掘られ、井堰(いぜき)によって水田へ灌漑(かんがい)されるようになっている。このように板付遺跡の水田は水路・井堰・取排水口を備えた極めて完成度の高い水田であった。同時期の水田は、佐賀県唐津市菜畑(なばたけ)遺跡・福岡市野多目(のため)遺跡でも発見されているが、同様に杭や矢板で保護した畦畔と灌漑施設を持つ完成されたものであった。
弥生時代の水田は九州から青森県に至るまで二〇〇か所以上発見されており、登呂遺跡では田一枚が二〇〇〇平方メートル以上のものもあるが、一般的には五〇平方メートル未満のものが大部分である。また、岡山市百間(ひゃっけん)川の原尾島(はらおじま)遺跡では、検出された稲の株跡に規則性がみられたことから、直接田に種をまく直蒔(じかま)きではなく、田植えを行う技術があったことが推定されている。