ビューア該当ページ

青銅器

137 ~ 139 / 1391ページ
東アジアでは中国の殷(いん)・西周(せいしゅう)において鼎(てい)・鬲(れき)などの青銅器の礼器が製作されている。日本では弥生時代前期初めの福岡県今川遺跡から銅鏃(ぞく)と銅鑿(のみ)が出土しているが、多数発見されるのは前期末以降である。弥生時代を通じて青銅器は武器や祭器として使用される例が多い(第5図参照)。

第5図 弥生時代の青銅器

 銅剣・銅矛(ほこ)・銅戈(か)(8~13)は、前期末から中期初頭には細身(細形)のものが多く実用の武器として使用され、墓地から人骨に刺さった切っ先が出土する例もある。また、これらの青銅器は福岡県志賀島や佐賀県惣座(そうざ)遺跡などから鋳型が出土しており、一部は北部九州を中心とした国内で生産されていた。中期前半には身の長さと幅が大きく、厚さが薄い中細形が現れ、実用的な武器から祭器へと用途が変化する。この段階には刃つけがしだいに不十分になり、瀬戸内周辺の銅剣や大阪湾型銅戈に装飾文様がみられる。武器形青銅祭器は中期後半になると中広形になる。ただし、九州では銅矛・銅戈が主流で、瀬戸内では銅矛と平形銅剣、山陰では銅矛が発見されている。後期では武器形青銅祭器は北部九州の広形銅矛と瀬戸内の平形銅剣に限られ、畿内以東では消滅する。島根県荒神谷(こうじんだに)遺跡では銅剣三五八本・銅矛一六本・銅鐸(たく)六個が一括して埋納されていた。
 銅鐸(1~3)は朝鮮の小銅鐸にその原形があり、前期末から中期にかけて北部九州に移入されたと考えられている。畿内では中期以降銅鐸が青銅祭祀の中心となる。形態は中期には菱環紐(りょうかんちゅう)式・外縁付き紐式・扁平紐式などと呼ばれる「聞く」銅鐸であるが、後期にかけて大形化し「見る」銅鐸へと変化する。
 銅鏡(4~7)は前期末から中期前半に中国製の多紐細文鏡(たちゅうさいもんきょう)が移入され、中期後半では中国の前漢鏡がみられ、前原市三雲南小路遺跡の甕棺墓からは内行花文(ないこうかもん)鏡・清白鏡などの銅鏡が三五面出土している。後期初頭になると方格規矩(きく)鏡に代表される後漢鏡が中心となり、福岡県井原鑓溝(やりみぞ)遺跡からは一八面が出土している。その後、後期前半から古墳時代にかけて後漢鏡に加えて国産の小型仿(ぼう)製鏡が現れる。