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衣服と装身具

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三世紀の中国の歴史書『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には、弥生時代後期の女性の衣服は貫頭衣(かんとうい)、男性は横幅衣と記録されており、日常着用していた衣服の手がかりとなっている。また、魏との交易品には「倭錦(わきん)」・「異文雑錦(いもんざっきん)」などの繊維製品があり、紡錘が遺跡からしばしば出土することと併せて、ある程度の機織の技術が存在したことを示している。衣服の素材は、北部九州では蚕の繭から採った絹がわずかにあるが、大部分はタイマ・カラムシ・アカソなどの草皮や、コウゾ・カジノキ・フジ・シナなどの樹皮から採った植物繊維であったと推定されている。衣服の素材となる布は、縄文時代晩期の段階で編布に加えて織布が作られ始めるが、弥生時代になるとしだいに織布の生産が盛んになる。
 装身具のうち頭部に装着するものは、木や骨で作った竪櫛(たてくし)や簪(かんざし)などの挿物系統と、木製ヘアバンドや玉類を連ねた結束物系統とがある。また、飯塚市立岩遺跡では多数の管玉や勾玉(まがたま)を連ねた髪飾りが出土している(第8図参照)。

第8図 飯塚市立岩遺跡出土の髪飾りを装着した女性(想像図)

 首飾りにも管玉・勾玉や小玉などを組み合わせて使用するが、これらの玉類の素材は硬玉・碧玉(へきぎょく)・貝・牙などのほかに、新しくガラスが使用されるようになった。腕輪では、縄文時代に木製・牙製・二枚貝製などがあったが、弥生時代には南海産巻貝(第7図10)・青銅・金銅・鉄・ガラスなどの製品が加わる。また、銀製・青銅製・貝製・鹿角(ろっかく)製などの指輪や、木製の履(くつ)も発見されている。
 中国からもたらされた権力の象徴となる道具としては、天明四年(一七八四)福岡県志賀島で発見された「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」銘の金印が、紀元五七年に後漢の光武帝から奴国王に与えられたものとされている。また、福岡県前原市三雲南小路遣跡から出土したガラス製の璧(へき)も中国では一定の身分の象徴である。