前期前半の集落は、一般的には四、五軒程度の住居に二〇~三〇人ほどが生活し、経営する水田も小規模であったと考えられる。このような小集落が平野内に少数点在し、独自に生産活動をしていた。ただし、この時期に既に環濠を周囲にめぐらす集落があり、蓄積されつつあった余剰生産物をめぐって争いが始まっていたことが想像される。
前期末から中期になると、水田の拡大を通して平野内に大規模な集落が形成されるようになる。また、安定した食料の確保による人口増加とあいまって、分村が大規模集落の周辺に営まれる。こうした集落のなかで強力なものは周辺の集落を統合して各地に「クニ」と呼ばれる政治的なまとまりが成立していった。そして、クニを支配する首長は集落を構成するほかの一般の人々から、しだいに懸け離れた存在となりつつあった。中国の『漢書地理志』では、紀元前一世紀の日本の状況を「夫(そ)れ楽浪(らくろう)海中に倭人(わじん)有り、分れて百余国と為(な)る。歳時(さいじ)を以って来り献見すと云ふ。」と記している。この時期のクニは平野を単位として、経済的に独立した集団であり、朝鮮半島の楽浪郡を通じて中国と交渉をもっていたことが分かる。