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倭国大乱と卑弥呼

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後期になると、『後漢書東夷伝』で「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更々(こもごも)相攻伐し、歴年主(あるじ)無し。」と伝えられるように、二世紀後半には各クニの間で争乱が激しくなった。
 『三国志』の『魏志倭人伝』には「其の国、本亦(また)男子を以って王と為し、住(とど)まること七・八十年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴(へ)たり。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼(ひみこ)と曰ふ。鬼道(きどう)を事とし、能(よ)く衆を惑わす。………卑弥呼死するを以って大いに冢を作る。径百余歩、徇葬(じゅんそう)する者、奴婢(ぬひ)百余人。」と記録されており、倭国の大乱を経て三世紀前半に共立されたのが邪馬台(やまたい)国の卑弥呼であった。このころ倭の国は三〇国あまりと記されてあり、紀元前一世紀の段階からクニの統合が進んでいたことが分かる。
 更に、卑弥呼が死亡した際に「径百余歩」の墳墓が作られたということは、弥生時代後期後半には埋葬方法が特定集団墓から更に一歩抜け出て、特定個人墓に移行していったことを裏付けている。