ビューア該当ページ

遺跡の概要

154 ~ 158 / 1391ページ
C地区では、古墳の残骸が残っていたものの、ほぼ完全に近く開墾されていたことから、弥生墳墓群の大半が上部を削平され、軽微なものが墳丘を、大破したものが墓壙や石棺材まで抜き取られていた。弥生墳墓としては、調査した甕棺墓三基・箱式石棺墓七基・石蓋(木蓋含む)土壙墓五二基の合計六二基が周溝や区画された群として独立する墳墓群を形成していた。これをⅠ~Ⅸ号墳墓群として群構成を想定したが、これらのうち確実に墳丘墓として認定できるのは、Ⅰ号・Ⅲ号~Ⅴ号・Ⅸ号・Ⅹ号墳墓群とした七基(群)で、周溝をめぐらせたり、他群から独立して群を構成している。C地区の墳墓群からは、副葬品として、Ⅰ号墳墓群5号墓で鉄剣、6号墓で方格規矩渦文鏡片・素環頭刀子、8号墓で三角縁画像鏡片・耳飾り玉類・手首飾りガラス小玉、13号墓で両耳飾りの玉類と刀子二点、Ⅲ号墳墓群で小形仿製鏡片(第20図の2参照)と鉄剣、Ⅳ号墳墓群19号墓で三角縁盤龍鏡・刀子、20号墓で玉類・刀子、Ⅵ号墳墓群42号墓で超大型鉄製釣針五点、大型透孔付鉄鏃・刀子、小型鉄鏃が出土したが、六二基中の四割の二五基で鉄器を持つなど内容の高い墳墓群である。完全に荒らされた箱式石棺墓をもつⅨ号・Ⅹ号墳墓は、周溝をめぐらす楕円形墳丘墓に復原できることなどからも、副葬品が鉄器だけでなく鏡なども持っていた可能性があるだけに、内容の豊富な墳墓群である。墳丘墓の墳丘形態としても、Ⅸ・Ⅹ号墳墓群の楕円形に対し、これに先行するⅠ号・Ⅲ号~Ⅴ号墳墓群の四基は周溝などから隅丸方形であり、弥生終末期の中で円形墳丘墓の出現が確認できる。なおC地区では、少なくとも先行するⅠ号・Ⅲ号墳墓群と共存していた弥生終末の竪穴住居群があり、北側のD・E地区にも分布している。したがって、弥生終末の古段階に集落が営まれていた一角で墳丘墓の造営が始まり、後の弥生終末新段階になると集落を意図的に破壊して埋め戻し、後の墳墓群を造営し続けている。
 D地区では、弥生終末期の竪穴住居跡が埋没した後に造営された墳墓二基が確認された。一基は南側に位置する舟形木棺墓を主体部とするが、墳丘や周溝が検出されなかった。しかし、主体部の規模と一定空間を占有することから一基の初期古墳として墳丘の存在を考える。その北側には、石蓋土壙墓三基が意図的にコ字形に配置され独立する一群があり、これも墳丘の存在が考えられるが周溝など完全に削平されていた。副葬品は、石蓋土壙墓一基から管玉一点と他の墓から土器片が出土しただけである。
 E地区では、調査前から四基の低墳丘が確認されており、隣接した開墾地から試掘で検出されていた墳丘が削平されて周溝のみになっていた一基を加えて合計五基の墳丘墓が調査された。このうちの一号墳丘墓は、長方形墳丘の北側に突出部を備える初期古墳で、墳丘中央に箱形木棺を内蔵した主体部一基があった。主体部内には、鉄斧と鉇が各一点副葬されていただけであった。墳丘には周溝がめぐるが、突出部前面になく、墳丘裾に貼石も残っていた。墳丘からは、古式土師(はじ)器と鉄斧が出土した。同じく古墳時代に属するのは、周溝のみの五号墳丘墓としたもので、周溝内から土師器が出土したが、墳丘が楕円形か隅丸方形と思われる。
 この地区で最初に造営されたのが、三号墳丘墓で一三基の主体部が埋葬されている。墳丘の西側が祓川崖面によって失われているので正確な規模と主体部数が不明であるが、現状の墳丘の西側に位置する唯一の箱式石棺墓が中央主体部らしいが、残念なことに完全に荒らされて鉄鏃二点が残っていたにすぎない。墳丘内に埋葬された主体部は、中央部の石棺の周囲に甕棺墓三基・石蓋土壙墓六基・木棺墓二基・土壙墓一基が配置され、副葬品が3号棺の甕棺内にガラス小玉があった以外に若干の鉄器と供献土器が出土した。三基の甕棺墓は、3号と8号棺が弥生終末古段階、10号棺が弥生終末新段階で、他棺の供献土器にも弥生終末の中での新古の時間幅が認められる。墳丘は、中央部分に盛り土が認められ、その周辺の地山整形の基部からなる二段築成を形成しており、主体部が盛土部で最上層から掘り込まれている。
 三号墳丘墓の埋葬が終わるころになって、南側に二号墳丘墓、北側に四号墳丘墓が続けて造営されている。二号墳丘墓は、三号墳丘墓との間に明瞭な周溝などの区画を持たないが、1号棺とその西側を含む位置を墳頂とした盛り土を形成し、1号棺の大型箱式石棺とその西側にあったであろう一棺の双方を盟主とした墳丘墓が想定できる。東側で古墳初期の一号墳丘周溝に切られていることから明らかに一号より先行するが、二次的に造られたと考える段築状の1号棺を取り巻く半月形溝から更に古式の土師器が出土している。二号墳丘墓も墳丘の西半分を失っているが、1号棺の石棺を中心に、半石棺一基・石蓋土壙二基・木蓋土壙一基の合計五基で構成され、1号棺からのみ副葬品として凹帯縁方格規矩鏡片・ガラス小玉・刀子が出土した。
 四号墳丘墓は、三号墳丘墓の北側墳丘の一部を割裂して周溝を丘尾切断状に掘って墳丘を楕円形に整形している。やはり墳丘中央部分に盛り土がなされ二段築成とするところは、他の墳丘墓と同じである。墳丘には、六基の箱式石棺墓と一基の土壙墓が埋葬されているが、土壙墓が埋葬形態が異質であるところから、主体部が石棺墓だけで構成されていた可能性が強い。副葬品は、1号棺以外が荒らされていたが、中央部の4号棺から内行花文鏡・玉類・素環頭刀子、3号棺から鉄剣片・大型透孔付鉄鏃二点、墳頂部攪(かく)乱土から鉄剣片二点・鉄鏃が出土した。墳丘北東斜面に土器群が散乱しており、時期が弥生終末新段階であった。


第13図 徳永川ノ上遺跡実測図