D地区では、弥生終末期の竪穴住居跡が埋没した後に造営された墳墓二基が確認された。一基は南側に位置する舟形木棺墓を主体部とするが、墳丘や周溝が検出されなかった。しかし、主体部の規模と一定空間を占有することから一基の初期古墳として墳丘の存在を考える。その北側には、石蓋土壙墓三基が意図的にコ字形に配置され独立する一群があり、これも墳丘の存在が考えられるが周溝など完全に削平されていた。副葬品は、石蓋土壙墓一基から管玉一点と他の墓から土器片が出土しただけである。
E地区では、調査前から四基の低墳丘が確認されており、隣接した開墾地から試掘で検出されていた墳丘が削平されて周溝のみになっていた一基を加えて合計五基の墳丘墓が調査された。このうちの一号墳丘墓は、長方形墳丘の北側に突出部を備える初期古墳で、墳丘中央に箱形木棺を内蔵した主体部一基があった。主体部内には、鉄斧と鉇が各一点副葬されていただけであった。墳丘には周溝がめぐるが、突出部前面になく、墳丘裾に貼石も残っていた。墳丘からは、古式土師(はじ)器と鉄斧が出土した。同じく古墳時代に属するのは、周溝のみの五号墳丘墓としたもので、周溝内から土師器が出土したが、墳丘が楕円形か隅丸方形と思われる。
この地区で最初に造営されたのが、三号墳丘墓で一三基の主体部が埋葬されている。墳丘の西側が祓川崖面によって失われているので正確な規模と主体部数が不明であるが、現状の墳丘の西側に位置する唯一の箱式石棺墓が中央主体部らしいが、残念なことに完全に荒らされて鉄鏃二点が残っていたにすぎない。墳丘内に埋葬された主体部は、中央部の石棺の周囲に甕棺墓三基・石蓋土壙墓六基・木棺墓二基・土壙墓一基が配置され、副葬品が3号棺の甕棺内にガラス小玉があった以外に若干の鉄器と供献土器が出土した。三基の甕棺墓は、3号と8号棺が弥生終末古段階、10号棺が弥生終末新段階で、他棺の供献土器にも弥生終末の中での新古の時間幅が認められる。墳丘は、中央部分に盛り土が認められ、その周辺の地山整形の基部からなる二段築成を形成しており、主体部が盛土部で最上層から掘り込まれている。
三号墳丘墓の埋葬が終わるころになって、南側に二号墳丘墓、北側に四号墳丘墓が続けて造営されている。二号墳丘墓は、三号墳丘墓との間に明瞭な周溝などの区画を持たないが、1号棺とその西側を含む位置を墳頂とした盛り土を形成し、1号棺の大型箱式石棺とその西側にあったであろう一棺の双方を盟主とした墳丘墓が想定できる。東側で古墳初期の一号墳丘周溝に切られていることから明らかに一号より先行するが、二次的に造られたと考える段築状の1号棺を取り巻く半月形溝から更に古式の土師器が出土している。二号墳丘墓も墳丘の西半分を失っているが、1号棺の石棺を中心に、半石棺一基・石蓋土壙二基・木蓋土壙一基の合計五基で構成され、1号棺からのみ副葬品として凹帯縁方格規矩鏡片・ガラス小玉・刀子が出土した。
四号墳丘墓は、三号墳丘墓の北側墳丘の一部を割裂して周溝を丘尾切断状に掘って墳丘を楕円形に整形している。やはり墳丘中央部分に盛り土がなされ二段築成とするところは、他の墳丘墓と同じである。墳丘には、六基の箱式石棺墓と一基の土壙墓が埋葬されているが、土壙墓が埋葬形態が異質であるところから、主体部が石棺墓だけで構成されていた可能性が強い。副葬品は、1号棺以外が荒らされていたが、中央部の4号棺から内行花文鏡・玉類・素環頭刀子、3号棺から鉄剣片・大型透孔付鉄鏃二点、墳頂部攪(かく)乱土から鉄剣片二点・鉄鏃が出土した。墳丘北東斜面に土器群が散乱しており、時期が弥生終末新段階であった。
第13図 徳永川ノ上遺跡実測図