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遺構の詳細

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徳永川ノ上遺跡の弥生終末から古墳初期の墳墓群は、C地区にⅠ号~Ⅺ号墳墓群(第14図参照)、D地区に一号~二号墳墓、E地区に一号~五号墳丘墓、E地区北端墳墓群の二基の合計一九基(群)の墳墓群が確認されたことになる(墳墓群一覧表)。これらの概要を前述したので、ここでは代表的な墳墓について少し詳しく紹介する。

第14図 徳永川ノ上遺跡C地区墳墓群全景(福岡県教育委員会提供)

 Ⅰ号墳墓群(第19図参照)は、C地区で墳墓群の南端に位置し、3号~13号墓の一一基で構成されている。この一群は、丘陵の尾根線上を占有することもあって、墓壙を完全に削平されているものが多いが、比較的棺内まで荒らされることがなかったようだ。一群の北西側と北側に小礫を含む不整形土壙があり、これを一線で結ぶと直角のL字形となり、墳墓群の北側縁辺と西側縁辺に並行する。したがって、この三つの不整形土壙を周溝の深い部分が残存したものと考え、このⅠ号墳墓群を南北径約一三・五メートル、東西径約一二メートルの隅丸方形の墳丘墓と認定する。一群の中央よりやや南側に東西に走る小路があり、更に南東部が空白なのは削平によって失われたものと思われる。一一基の主体部のうち、南端の7号墓のみ石蓋土壙墓で、10号墓が舟形木棺墓、12号墓が箱形木棺墓、その他が木蓋土壙墓であった。副葬品は、この木蓋土壙墓に集中しており、棺内が荒らされていないことと、土壙壁面の保存のよいことから木蓋土壙墓と判断したもので、石蓋土壙墓であれば開墾された時点で棺内が荒らされるのが通例である。
 5号墓は、削出枕を持ち、右脇に切っ先を足元に向けた鉄剣を副葬していた。鉄剣は全長三一・二センチメートルで、関部に二個の目釘穴を持っている(第21図参照)。
 6号墓は、削出枕上に素環頭刀子、胸部に方格規矩渦文鏡片・刀子・鉄鏃を副葬していた。素環頭刀子は全長二一・四センチメートルで、環頭が梯形をし、柄が若干内反りを示す。方格規矩渦文鏡は、直径一〇・五センチメートルの鈕を含む半分以上を欠損する破鏡で、破面を除く全体が「手ずれ」による摩滅が著しく、文様面や鏡縁角に丸みがみられる。また、第15図の下部にあたる文様面には摩滅する前に鋳造時の「湯冷え」がみられ、摩滅部分以上に文様が不鮮明となっている。本鏡は鏡全体が、摩滅するほど使用された後に破鏡となったらしく、破面にヤスリ状研磨痕が明瞭に観察できる。ヤスリ状研磨は、破損面を一度平坦にした後に、鏡面との角を面取りする形で二度実施されており、その後の摩滅が観察できない。すなわち、破鏡となった直後に副葬されたことになる。鏡の文様は鈕座が直接方格となり、主文に渦文とTLV形があり、TLVがそろっているものの、V形が単線で鈍角となっている。銘帯はあるものの、銘文が省略されて列線文である。外区は、内側に鋸歯文、外側に複線波文の組み合わせである。鏡の型式は、後漢中期以後のものである。

第15図 Ⅰ号墳墓群6号墓出土方格規矩渦文鏡(1/2)

 8号墓は、削出枕をもち、頭部左側に三角縁画像鏡片(第16図参照)、頭部中央よりやや左に勾玉と管玉三点、頭部右側に水晶丸玉を中心にガラスの小玉と粟玉の一群、腹部の左右にガラス小玉の二群があり、それぞれ、両耳飾り(第17図参照)と両手首飾りと思われる。胸部右側に刀子も副葬されていた。三角縁画像鏡は、復原直径約二二センチメートルの大型鏡の外区のみの破片で、鏡縁と破面に「手ずれ」による摩滅がみられるが、文様が鮮明で、鋳造時の微細な鋳型傷や研磨痕が観察できることから、破鏡となって副葬されるまで短時間であったと考える。

第16図 Ⅰ号墳墓群8号墓出土三角縁画像鏡(1/2)


第17図 Ⅰ号墳墓群8号墓出土耳飾り玉類

 13号墓は、小路で破壊されて削出枕とその付近が残っていただけであったが、枕上の両側に刀子各一点と、両耳飾りの玉類が副葬されていた。右耳飾りは、ヒスイ丸玉を中心に小形管玉一二点とガラス小玉四点で構成されていた。左耳飾りは、ヒスイ勾玉を中心に、ガラス管玉一点、ガラス小玉一五点から構成されている(第18図参照)。

第18図 Ⅰ号墳墓群13号墓出土耳飾り玉類

 Ⅳ号墳墓群は、周溝を持ち墳丘をわずかに残していた隅丸長方形墳丘墓のⅤ号墳墓群の東側に隣接し、箱式石棺墓一基・石蓋土壙墓三基・木蓋土壙墓一基の合計五基から構成されている。この一群は、周溝や墳丘が検出されなかったものの、墓の全部が西枕で統一されること、副葬品を持った19号~21号墓の三棺が鼎立する位置にあって盟主的位置を占めていることなどからⅤ号墳墓群より地形的優位を占める隅丸長方形墳丘墓と考える。墳丘墓の推定規模は、南北径約九・五メートル、東西径約八メートルの大きさとなる。

第19図 C地区Ⅰ号墳墓群全景(福岡県教育委員会提供)

 19号墓は、鼎立して墳丘の南西側を占める一基の石蓋土壙墓であるが、開墾時に棺中央部と頭部の一部が荒らされていた。一部荒らされた枕付近に三角縁盤龍鏡が散乱し、左胸部に刀子が副葬されていた(第21図参照)。この墓を石蓋と判断したのは、棺内が荒らされていたことと、壁面が石蓋の重みで崩壊していたことによる。三角縁盤龍鏡は副葬時に完形鏡と思われる直径九・八センチメートルの小型鏡である(第20図の1参照)。文様構成は、鈕を中心に鈕から飛び出した左に龍、右に虎が五銖銭を間に置いて向き合っている。その外側の銘帯には「三羊作竟」で始まる七言句の銘文があるが、「手ずれ」と「湯冷え」によって大半が判読できない。外区は、内側に円圏、中央に画文帯、外縁が三角縁となっている。鏡式から後漢中期以後のものと考える。鏡は、全体に「手ずれ」によって摩滅して丸みをおびているが、その前に龍虎の足元から外側に「湯冷え」があり、銘帯の銘文と円細線が完全に失われているのと、外区の画像文も平坦なものとなっている。なお、鏡の両面に赤色顔料、鏡面に布目痕が付着している。
第20図


1. Ⅳ号墳墓群19号墓出土三角縁盤龍鏡(1/2)


2. Ⅲ号墳墓群出土小形仿製鏡(1/2)

 20号墓は、墳丘の東側を占め、削出枕を備えた木蓋土壙墓で、上部を削平されているものの、棺内が荒らされていなかった。棺内の胸部から玉類と刀子が出土した。玉類は、碧玉製微小勾玉・ガラス丸玉・碧玉管玉各一点とガラス小玉九点から構成されている。
 21号墓は、完全に石材の全部を抜かれた箱式石棺墓で、この一群で最も盟主的位置にあったと考える。副葬品は、刀子刃部と茎片が出土したがいずれも大型に属し、19号墓に小型完形鏡が副葬されていたことを考えると、これも鏡が副葬されていたと考えるべきであろう。
 Ⅵ号墳墓群は、隅丸長方形墳丘墓のⅤ号墳墓群の南西周溝を切って造られた一群であるが、四基のうちの1・2号墓が六世紀以後であることから、42号・43号墓の二基が墳丘墓の裾に営まれたことになる。
 42号墓は、大型の石蓋土壙墓で、棺外の墓壙に超大型鉄製釣針五点・鉄鏃一点・土器二点、棺内に大型透孔付鉄鏃・刀子各一点を副葬していた(第21図参照)。釣針は、高さ七センチメートルから一一・四センチメートルの超大型軸長形式で、ふところ幅も二・四センチメートルから二・九センチメートルと広い。また内鐖(かかり)式で、鐖も大きいものとなっている。軸には、小さいもので長さ三・五センチメートル、大きいもので長さ五・五センチメートルの間に繊維が巻き付けてあり、鉤(かぎ)ではなく明らかに釣針であることを示している。この釣針が超大型であることに加えて特記すべきことは、軸に丸造りが二点あることで、これまで丸造りの出現は古墳時代中期といわれていただけに、京築地域の鉄器における先進性がうかがえる。更に、棺内の透孔付鉄鏃も、長さ一六・八センチメートルでこの類の最大級のもので、京都平野を中心に南が宮崎県、東が京都府、西が佐賀県、北が韓国釜山市に分布しているが、北部九州の中心部である糸島・福岡・唐津平野で現在のところみられない。本遺跡では九点出土し、一遺跡の出土数として最多である。供献土器の時期は、弥生終末新段階である。
 E地区四号墳丘墓は、弥生終末古段階の三号墳丘墓に断続して造営されたもので、南北径一三メートル、東西復原径一二メートルの楕円形墳丘を持っている。墳丘は、丘陵の南側を丘尾切断状に弧状周溝によって切り離し、東側と北側を地山整形することによって造成している。更に墳丘中央部には、周溝や地山掘削による余剰土を使用したと思われる厚さ七〇センチメートルの盛り土があり、墳丘が二段築成となっており、一号~三号墳丘墓と同様であった。主体部がこの盛土部の二段目を中心に配置され、南北端の3号・5号~7号棺が一段目の地山整形部にかかることから、明りょうに区別した段築構造ではない。主体部は、性格不明な6号棺以外の六基が箱式石棺墓で占め、小児用の7号棺以外が東西方向に統一して配置されている。

第21図 墳墓群出土鉄器
(アルファベットは地区記号、ローマ数字は墳墓群 漢数字は墳丘墓番号、アラビア数字は墳墓番号)


第22図 E地区四号墳丘墓全景(福岡県教育委員会提供)

 3号棺は、蓋石の全部がなく棺内の大半が荒らされていた唯一西枕の箱式石棺墓。棺内中央右側に移動した鉄剣約半分、左足側に大型透孔付鉄鏃二点が副葬されていた(第21図参照)。
 4号棺は、墳丘中央にあって、石材も大型の安山岩板石に統一された優美な箱式石棺墓(第23図参照)であり、この墳丘墓の盟主的位置を占めることが外見からも看取できる。石棺は、中央部の蓋石一枚が盗掘によって移動し、頭部付近が荒らされ、棺外に管玉が散乱していた。しかし、棺内中央部から足元が保存されており、東枕の削出枕でなく、河原石枕があり、その右(南)側に完形の内行花文鏡が副葬され、石枕の周辺に人骨片も残っていた。また、棺内中央に素環頭刀子があり、この付近から東枕側にかけて管玉が散乱していた。

第23図 E地区四号墳丘墓4号棺実測図(1/50)

 内行花文鏡(第24図参照)は、直径一三センチメートルの完形中型鏡で、蝙蝠鈕座間に「長宜孫子」、花文間に「位至公」の銘文がある後漢中期以後の鏡である。鏡は、全体に「手ずれ」による摩滅が若干あり、鏡縁などに丸みがみられるが、鈕座などに鋳造後の研磨痕も観察できることから、「手ずれ」の摩滅が少ない方であろう。管玉(第25図参照)は、二九点全部がグリーンタフ製で、長さ五・二~一〇・七ミリメートルの細形である。素環頭刀子は、全長二四センチメートル、刀身長一四センチメートルの大きさで全体に細目の布目痕が付着している(第21図参照)。
第24図


1. E地区四号墳丘墓4号棺出土内行花文鏡(1/2)


2. 同二号墳丘墓1号棺出土方格規矩鏡(1/2)


第25図 四号墳丘墓4号棺出土玉類

 墳頂部表土からは鉄剣片二点と大型鉄鏃一点が出土しており、剣の一点が切っ先に近いことから、3号棺のものではなく、4号棺に剣が副葬されていた可能性をもっている。なお、墳丘北東斜面に土器が散乱しており、供献土器と考える。供献土器の時期は、弥生終末新段階である。