神手遺跡の性格を考える場合、弥生時代前期後半から中期前半にかけての時期と、後期後半を中心として古墳時代初頭にまたがる時期との二つの時期に分けて考えなければならない。
前期後半から中期前半にかけての時期は、2号・4号の一連の溝状遺構で囲まれた環濠集落としての性格を示している。この集落は、主として貯蔵穴と円形竪穴住居跡とから構成されたと推定されるが、確実な住居跡は確認されていない。貯蔵穴の形態については、同時期の京都平野の拠点集落の一つである行橋市下稗田遺跡と同じく、床面がすべて円形をなす点が、一つの地域色を示す。
次に、後期後半を中心とした時期では、集落としての性格と墓地としての性格がみられる。各遺構の分布状況をみると、集落を構成する方形竪穴住居跡が調査区全域に広がるのに対して、墓地の埋葬施設のうち成人墓は調査区南部に集中する傾向がある。方形竪穴住居跡の構造は、基本的に床面が長方形の平面形態をなし、中央部に炉を設け、その両側に計二本の主柱穴を配し、長辺の一辺の中央部に屋内土壙を持ち、長短辺の一部にベッド状遺構を伴う。