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調査経過と遺跡の概要

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調査の契機は、祓川右岸堤防上を走っていた県道行橋・山国線(現国道四九六号)の道路改良工事であった。この道路は当遺跡が立地する小丘陵を縦断するルートに設定されていたため、当遺跡は完全に破壊されることとなった。このため、豊津町教育委員会は福岡県教育庁京築教育事務所と協議のうえ、当遺跡の北半分を平成二年度に、また半分を平成五年度に調査することとなった。
 当遺跡は、従来から北垣古墳群の所在地として知られており、この古墳群の調査が主たる目的であった。しかし、調査を開始して表土をはいだ時点で石棺墓や土壙墓が検出され、古墳群の築造に先行して、弥生時代の墓地が営まれていることが判明した。このため、弥生時代の墓地関連の遺構の調査は、古墳の発掘と並行しながら、古墳の盛り土除去後に残りの埋葬施設の発掘をすることとなった。なお、周辺の弥生時代の遺跡としては、当遺跡の南側で、犀川町との境をなす丘陵上に、集落跡である羽熊遺跡が調査されている。
 調査の結果検出した弥生時代の遺構はすべて中期から後期に属し、石棺墓八基・石蓋土壙墓四基・土壙墓二基のほか、これらの埋葬施設の一部を囲む方形周溝や祭祀遺構などが検出された(第35図参照)。

第35図 北垣遺跡全体図