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平(たいら)遺跡

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国道四九六号が台ケ原台地の東側斜面に沿って坂になる部分の西側に位置し、標高は六九メートルで、東側に広がる祓川の沖積平野とは約二〇メートルの比高差がある。
 宅地造成中に発見された箱式石棺墓一基が、福岡県教育委員会によって調査された。調査開始時には既に蓋石が取り除かれ、足位側が一部破壊されていた。
 遺構は、ほぼ東西方向に主軸をとる、長さ二・五メートル、幅約一メートルの墓壙内に構築された箱式石棺墓である。石棺は長さ一・八八メートルで、幅は頭位で〇・三五メートルを計る。両側壁はともに三枚の石材を使用し、床面にも花崗岩の板石三枚が敷かれている。石棺内面には赤色顔料が塗布されている。頭位の床面には赤色顔料を含む土が一〇センチメートル程度の厚さでみられ、枕があったと考えられている。また、床面のほかの部分でも赤色顔料を含む土は厚さ五センチメートル程度あり、遺物も敷石からやや高い位置から出土しており、遺体はこの赤色顔料を含む土層の上に置かれたらしい。なお、側壁上端部には粘土の目張りも施されていた。
 遺物は棺内の枕上面から夔鳳(きほう)鏡片一面と、九本の鉄鏃がA・B二群に分かれて出土した。夔鳳鏡片は全体の一〇分の一以下の小片で、鏡面を下に向けて出土した。復原すると推定で直径一六センチメートル程度で、厚さは割れ口で一・八ミリメートル、縁辺部で四ミリメートルである。図文は平彫りで、彫りが浅く繊細で、現存部は双鳳の相対した部分にあたる。割れ口には磨いた痕跡や手ずれの跡は認められない。鉄鏃のうち、A群は七本からなりすべて平造りの無茎長三角式に属し、基部の抉(えぐ)り込みが深い。長さ四・七センチメートル、幅一・九センチメートル、厚さ〇・二センチメートル前後のものが四点(第40図1~4)、長さ四・七センチメートル、幅一・八センチメートル前後のものが二点(第40図5・6)みられる。これらには先端から一~一・五センチメートルの部分に矢柄と鏃身を緊縛(きんばく)して固定するために三~四ミリメートルの間隔をおいて、径一ミリメートル前後の双孔をうがっている。B群の鉄鏃二本(第40図8・9)は茎を持つもので、矢柄も残存して出土している。二本とも同形式のもので、中央部に鎬(しのぎ)が通り、断面は菱形に近い形態をなす。鉄鏃の茎を矢柄に差し込んだ後、桜の皮を巻いて固定している。

第40図 平遺跡出土鉄鏃

 当箱式石棺墓は、弥生時代後期末を前後する時期と考えられる。また、この時期の墓地で、埋葬施設に銅鏡を副葬する例は、町内ではほかに徳永川ノ上遺跡の墳丘墓しかなく、被葬者の性格を考えるうえで貴重な資料となっている。なお、一般的にこの時期の墓地は、集団の共同墓地・特定の個人墓に限らず複数の埋葬施設が集中する傾向があり、当遺跡の場合も周辺に墓地が広がるものと推定される。