第42図 苅田町葛川遺跡全体図
前期後葉の板付ⅡB式の時期になると、行橋市下稗田(しもひえだ)遺跡で大規模な拠点集落が形成される(第43図)。当遺跡は約三三万平方メートルにのぼる宅地開発に伴う調査で、その全容が明らかとなった複合遺跡である。集落は標高二〇~三〇メートルの低丘陵上に立地しているが、環濠は発見されていない。当遺跡の集落は既に前期中葉の段階で住居跡七軒・貯蔵穴九二基が営まれていたが、後葉ではI・Ⅱ・Ⅲ地点で合計で住居跡八八軒・貯蔵穴一〇四五基、全体では同時に二〇~三〇軒程度の住居が存在したと推定される集落である。なお、当遺跡の集落は中期の前葉でも住居跡四〇軒・貯蔵穴二八七基が検出され、最終的には中期後葉まで住居跡が営まれ続けている。前期から中期にかけての遺構の合計は住居跡一六六軒・貯蔵穴一八三六基にのぼっている。墓地は集落の北方と南方の二か所の別の丘陵上にある。小児の一部については集落内の甕棺墓などに葬られている。全体としては石棺墓・石蓋土壙墓・土壙墓・甕棺墓などの埋葬施設二八三基と祭祀遺構二七基が確認されている。副葬品は石剣一本を持つ土壙墓が一基、勾玉・管玉などの玉類を持つ土壙墓が五基あるが、青銅製品などの特に際立った副葬品を持つ埋葬施設はない。行橋市竹並遺跡は京都平野南部に延びる錦原丘陵北端部の、標高五〇メートル前後に位置する。弥生時代では前期後葉から中期前葉にかけてと中期後葉から後期にかけての集落と墓地とからなる。前期後葉から中期前葉にかけての集落を構成する遺構は、住居跡一一軒と貯蔵穴九二基である。この時期の墓地は集落のある丘陵から南方に派生した丘陵上にあり、石蓋土壙墓・土壙墓・木棺墓・壺棺墓など一九基からなる。前期後葉の他の遺跡としては、苅田町黒添・宮の下遺跡・行橋市矢留遺跡・犀川タカデ遺跡・椎田町広幡城(ひろはたじょう)遺跡などのほか新吉富村中桑野遺跡があるが、小規模で分村的な集落ばかりである。
第43図 行橋市下稗田遺跡全景(行橋市教育委員会提供)