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前期

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前期前葉の板付Ⅰ式土器が出土した遺跡としては、行橋市長井遺跡と辻垣遺跡とがある。長井遺跡は京都平野東部の海岸砂丘にあり、縄文時代晩期の夜臼(ゆうす)式の甕と板付Ⅰ式の壺が出土している。辻垣遺跡は祓川が平野部に出て扇状地が形成され始める地形に位置する低地性環濠集落と考えられており、東西約三五メートル、南北約一三〇メートルの範囲に、貯蔵穴と住居跡の可能性がある長方形土壙が発見されている。ただし、この環濠は水害から集落を守るために作られたものと推定されている。遺物では夜臼式系と板付Ⅰ式の壺・甕がともに出土している。この二つの遺跡はともに海岸部や内湾部に面した場所に立地する点が共通している。前期中葉の板付ⅡA式の時期では、苅田町葛川(くずかわ)遺跡と豊津町神手遺跡がある。葛川遺跡は京都平野北部の標高二〇メートル前後の低丘陵の先端部に位置し、南東側約一キロメートルには内湾が入り込んでいたと考えられる。遺跡は東西五七メートル、南北四三メートルの卵形をなす環濠とその内外に分布する三五基の貯蔵穴とからなる(第42図)。貯蔵穴は床面の平面形が円形ないし楕円形のものが大部分である。神手遺跡もこの時期から前期後葉にかけての遣跡で、環濠と貯蔵穴からなる集落である。

第42図 苅田町葛川遺跡全体図

 前期後葉の板付ⅡB式の時期になると、行橋市下稗田(しもひえだ)遺跡で大規模な拠点集落が形成される(第43図)。当遺跡は約三三万平方メートルにのぼる宅地開発に伴う調査で、その全容が明らかとなった複合遺跡である。集落は標高二〇~三〇メートルの低丘陵上に立地しているが、環濠は発見されていない。当遺跡の集落は既に前期中葉の段階で住居跡七軒・貯蔵穴九二基が営まれていたが、後葉ではI・Ⅱ・Ⅲ地点で合計で住居跡八八軒・貯蔵穴一〇四五基、全体では同時に二〇~三〇軒程度の住居が存在したと推定される集落である。なお、当遺跡の集落は中期の前葉でも住居跡四〇軒・貯蔵穴二八七基が検出され、最終的には中期後葉まで住居跡が営まれ続けている。前期から中期にかけての遺構の合計は住居跡一六六軒・貯蔵穴一八三六基にのぼっている。墓地は集落の北方と南方の二か所の別の丘陵上にある。小児の一部については集落内の甕棺墓などに葬られている。全体としては石棺墓・石蓋土壙墓・土壙墓・甕棺墓などの埋葬施設二八三基と祭祀遺構二七基が確認されている。副葬品は石剣一本を持つ土壙墓が一基、勾玉・管玉などの玉類を持つ土壙墓が五基あるが、青銅製品などの特に際立った副葬品を持つ埋葬施設はない。行橋市竹並遺跡は京都平野南部に延びる錦原丘陵北端部の、標高五〇メートル前後に位置する。弥生時代では前期後葉から中期前葉にかけてと中期後葉から後期にかけての集落と墓地とからなる。前期後葉から中期前葉にかけての集落を構成する遺構は、住居跡一一軒と貯蔵穴九二基である。この時期の墓地は集落のある丘陵から南方に派生した丘陵上にあり、石蓋土壙墓・土壙墓・木棺墓・壺棺墓など一九基からなる。前期後葉の他の遺跡としては、苅田町黒添・宮の下遺跡・行橋市矢留遺跡・犀川タカデ遺跡・椎田町広幡城(ひろはたじょう)遺跡などのほか新吉富村中桑野遺跡があるが、小規模で分村的な集落ばかりである。

第43図 行橋市下稗田遺跡全景(行橋市教育委員会提供)