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中期

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中期前葉には、京築地域南部でもまとまった集落が営まれるようになる。築城町広末・安永遣跡は小山田川が平野部に出る左岸の、標高三〇メートルの舌状台地上にある。前葉から中葉にかけての住居跡一五軒のほか多数の貯蔵穴が発見されている。1号住居跡は床面中央部に炉跡を持つ大型の円形竪穴住居跡で、直径九・六メートルを計る(第44図)。新吉富村中桑野遺跡の集落も主体はこの時期にある。前期後葉から中期前葉の集落は、平野内や縁辺部に延びる丘陵上に位置するものが多い。京築地域北部でも苅田町木ノ坪遺跡では前半の住居跡六軒、豊津町徳永川ノ上遣跡では住居跡五軒などが確認されている。

第44図 築城町広末・安永遺跡1号住居跡
(縮尺1/150)

 中葉から後葉にかけては、全体的に遺跡が減少してくる。代表的遺跡に築城町安武・深田遺跡がある。この遺跡は城井川が平野部に出てくる標高三四メートル前後の左岸の後背地にある。中期後葉から後期後葉にかけての円形および方形の竪穴住居跡が八軒調査された。また、行橋市内屋敷遺跡は京都平野南部の御所ケ岳山塊から北側の標高二三メートル程度の低丘陵上にある遺跡で、中期末から後期前半にかけての住居跡が三軒見つかっている。
 行橋市前田山遺跡では、前期末から古墳時代初頭の大規模な墓地があり、石棺墓・石蓋土壙墓・土壙墓・甕棺墓などが二四四基調査されているが、主体となる時期は中期である。