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後期

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後期前葉の遺跡はまだ少ないが、中葉以後しだいに増加し、後葉から古墳時代初頭の時期に大規模な集落が営まれるようになる。木ノ坪遺跡は京都平野西部の縁辺部の標高一八~二〇メートル程度の低い台地上にある。発見された住居跡のうち、七〇軒以上が後期後半から古墳時代初頭に属するものである。築城町十双遺跡は城井川が下流域に入って形成した標高三〇メートル前後の沖積平野に位置し、中葉から古墳時代初頭にかけての住居跡三一軒が発掘された(第45図)。苅田町谷遺跡は京都平野北西部奥の低丘陵の西側裾部に位置し、標高は一七メートル前後である。後期終末から古墳時代初頭の住居跡が八軒調査された。このように、この時期の集落は平野の奥まった地域で、標高の低い台地や沖積地に新たに形成される傾向があり、多くは現在では水田として開墾されている場所にある。このほか、下稗田遣跡で住居跡七七軒、矢留遺跡で住居跡二〇軒程度、豊前市小石原泉遺跡では終末期の住居跡三軒と掘立柱建物跡二棟が調査されている。徳永川ノ上遺跡では後期終末の住居跡一六軒が発見されたが、すべて火災に遭っていた。

第45図 築城町十双遺跡配置図
(北西部のみ、縮尺1/800)

 この時期の代表的墓地である大平村穴ケ葉山遺跡は、山国川西岸の標高約七〇メートルの小高い丘陵上にあり、石蓋土壙墓八六基・土壙墓二基が密集して発見された(第46図)。地形の状況からみて、一〇〇基を大幅に超える埋葬施設が営まれていたと推定される。この墓地の特徴は大部分が石蓋土壙墓であり、内部にベンガラが使用されていることと、約八割程度の埋葬施設では地山削り出しの枕が設けられていることである。また、四割以上の石蓋土壙墓には、銅鏡片や鉄製の剣・素環刀・槍先・鏃などの武器と鋤先・鉇(やりがんな)・刀子などの農・工具があり、硬玉製勾玉・碧玉製管玉・ガラス小玉・水晶製切子(きりこ)玉などの玉類も副葬されていた。徳永川ノ上遺跡は、終末期から古墳時代初頭の墳丘墓一〇基以上の存在が確実視されているが、墳丘墓という埋葬形態や銅鏡六面に代表される副葬品の内容からみて特定集団の墓地と考えられる。また、この時期には方形周溝墓が当地域でも築造され、下稗田遺跡・竹並遺跡・北垣遺跡などで調査されている。

第46図 大平村穴ケ葉山遺跡配置図