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集落の立地環境

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弥生時代前期の集落のうち、前葉・中葉の集落は京都平野に入り込んでいた内湾の沿岸部に沿って営まれるものが多い。これは初期の水稲耕作を行う場合、生産地である水田が、形成されつつあった沖積地の湿潤な低湿地に設定されたためと考えられる。辻垣遺跡では前葉の集落が祓川下流の後背湿地に立地するが、水害に対する防御施設として環濠をめぐらしている。中葉の葛川遺跡も、同じ内湾の北西部に位置し、低丘陵の先端部に貯蔵穴群を取り囲む環濠をめぐらしている。また、長井遺跡や石並遺跡の場合、この内湾と外海の周防灘とを分ける海岸砂丘上に立地し、水田を開発する適地が少ないことから、この遺跡を残した人々は水稲耕作以外の狩猟・漁労などに従事していたことも想像される。前期後葉になると海岸から二~三キロメートル入った平野の奥でも集落が営まれるようになる。しかも、急激にその数が増加するとともに、下稗田遺跡のような大規模な拠点集落が形成されるようになる。この時期には早くも、犀川町タカデ遣跡のように河川の中流域でも小規模な集落が営まれるが、技術的にまだ耕作地として開発しにくい土地であることから、水稲耕作に伴うものか疑問が残る。
 集落の増加傾向は中期前葉まで続き、新たな水田開発を目指して、拠点集落から分かれた分村が各地に営まれる。分村型の集落は豊津町金築遺跡、築城町広末・安永遺跡、大平村土佐井ミソンデ遺跡のように、比較的短期間で姿を消すものが多く、中葉まで続いた集落も後葉には途絶えてしまう。下稗田遺跡が示すとおり、京築地域の弥生時代を通じて集落が最も減少するのが中期後葉である。この時期は住居跡の形態や集落の構成の面からも過渡的な時期となっており、築城町安武・深田遺跡や新吉富村尻高畑田遺跡などで、住居跡が調査されている。前期後葉から中期中葉にかけての集落の立地は、一部沖積平野内の微高地に位置するものがあるが、多くは水田に近接する縁辺部の標高三〇~四〇メートル前後の低丘陵上に営まれる。
 後期になると、苅田町谷遺跡や苅田町木ノ坪遺跡・築城町十双遺跡のように、平野の奥の舌状台地や沖積地などの標高一〇~二〇メートル前後の低地に、新しい集落が営まれるようになる。一方では下稗田遺跡・竹並遺跡のように、前期から中期にかけて使用していた丘陵上に再び集落を営む場合もある。この時期は一般的に集落の規模が大きくなる。また、大平村穴ケ葉山遺跡の墓地に副葬された豊富な鉄製品が物語るように、石斧や石庖丁などの主要な石製の道具が、鉄製品に交替する時期でもある。その結果として、中期の段階にはできなかった土地を新たに水田として開発することが可能になっていったと想像される。そのことを裏付けるのが、前者にみられるような低地に出現した大規模集落ではないかと考えられる。