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中期の集落

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中期前葉から中葉にかけての集落でも、前期にみられた円形竪穴住居跡と袋状竪穴の貯蔵穴という構成は引き継がれている。ただし、住居の規模は、広末・安永遺跡1号住居跡や下稗田遺跡B地区29号住居跡・竹並遺跡AW地区2号住居跡のように、前期後葉以後直径八~一〇メートル程度の大型のものがみられるようになる。また、中葉になると平面形が楕円形の竪穴住居が現れる。下稗田C地区7号住居跡は長径七・五メートル、短径四・三メートルの住居跡で、床面中央部に炉を持つ。柱穴は壁面下に一~一・五メートルの間隔で設置される特殊な配置を示す(第49図)。また、中期になると掘立柱の建物が造られるようになる。新吉富村牛頭天王(ごずてんのう)公園遺跡では、二基の貯蔵穴とともに五棟の掘立柱建物跡が確認されており、そのうち1号掘立柱建物跡は長さ約八・五メートル、幅約四・六メートルを計る大型の建物である。ただし、同時に倉庫である貯蔵穴が発見されていることから、この建物は高床倉庫というよりも、なんらかの住居ではないかと考えられる。貯蔵穴は、前期には平面形が円形であるが、中期になると方形のものが現れる。特に、行橋市・京都郡南部から豊前市・築上郡にかけて長方形の平面形のものが多くなる。豊津町カワラケ田遺跡、広末・安永遺跡、新吉富村中桑野遺跡などで円形・方形のものが同時に検出されている。規模は前期後葉から大型化する傾向にあり、床面の直径が二メートルを超えるものが増加する。下稗田遺跡では二・五メートルを超えるものはすべて前期後葉以後のものである。なお、倉庫としての貯蔵穴は当地域を通じて中期中葉まで続く。

第49図 下稗田遺跡C地区7号住居跡(行橋市教育委員会提供)

 後葉になると集落を構成する住居と倉庫の構造が変化してくる。住居は床面が円形のものに加えて、隅丸方形ないし方形の平面形のものが出現する。築城町安武・深田遺跡61号竪穴住居跡は中期末に属し、南北長六・九メートル、東西幅六メートルの平面隅丸方形をなす。周壁下には幅二五センチメートル前後の溝をめぐらし、中央部には楕円形の炉が作られている。安武・深田遺跡の弥生時代の集落は中期後半から後期初頭にかけてのものであるが、平面形が判明しているものでは円形のものが四軒、方形のものが五軒となっており、相対的に円形から隅丸方形・方形への変化がうかがえる。倉庫については、この遺跡では貯蔵穴が二基しか確認されておらず、一方では住居跡の周囲に多数の柱穴群が検出されている。また、新吉富村尻高畑田遺跡でもこの時期の住居跡が一〇軒見つかっているが、貯蔵穴はまったくなく、同様に多数の柱穴が検出されている。このように、後葉を前後する時期に、倉庫が貯蔵穴から掘立柱の高床倉庫に移行するものと考えられる。
 なお、西日本では中期を中心に、外敵から集落を守るために周囲に大きな溝をめぐらす環濠集落が形成される。しかし、当地域では、前期中葉の葛川遺跡で貯蔵穴からなる倉庫群を取り囲むような環濠が発見されているが、その後集落全体を区画するような大規模な環濠は未発達である。下稗田遺跡のような拠点集落が中期中葉で途絶えるのも、環濠という防御施設に対する意識の希薄さに起因したのかもしれない。